いじめ防止対策推進法への批判的コメント(2)―「いじめ」は本当に行ってはならないものなのか

今日は、かなり挑発的な副題をつけてみた。

そのまえに、まず昨日の投稿を思い出してほしいのだが、私は、いじめを定義することは問題の解決につながらないと考えており、学問的にはいざ知らず、実践的には定義は重要ではないと考えている。

だから、副題でひょっとして行ってもよいかもしれない「いじめ」は、世間では許しがたい「いじめ」とは別のものかもしれないことをお断りしておく。

「いじめ」を飼い慣らす

いじめ防止対策推進法には次の条文がある

第四条 児童等は、いじめを行ってはならない。

この条文には二つ疑問がわく。

1.こんなことでいじめがなくなるなら、誰も苦労しない。単純にあほらしいと思ってしまう。

2.本当にいじめを行ってはならないのだろうか。第二の点については、さらに細かく二つに分けて考えたい。

(a)文字通り「いじめ」をおこなってはならないか、
(b)発達途上にある「児童」に禁止することは果たしてよいのか、

ということである。

まず2の(a)から考えてみよう。

通常、いじめと称されるもののなかには、成人であれば犯罪になるような暴行・恐喝から、シカトといわれる仲間外し、陰口・悪口まで含まれると思われる。

もちろん、暴行・恐喝等は行ってはならない、と断定してもよさそうだ。しかし、これだって、私が子どもの頃には、学校でとっくみあいのケンカなどがあり、もしそれを暴行だと呼べば呼べないこともない。昨日示した法案のいじめ定義で見られるように、定義には特に期間の定めもないので、たった一回の大げんかでも「当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じてい」たらいじめになってしまうわけだ。

ところが、昔の学校では、「先にどちらかが泣いたらケンカは終わり」みたいなルールが子どもたちに共有されていた。また、正義の味方みたいな子もいて、一方的なケンカは止めに入ったり、制裁したりしていたこともあった。

また、小学生なら悪口なんてあたりまえで、「バ〜カ!」「バカって言った方がバカだ」「バカって言った方がバカって言った方がバカだ」、といった具合に、悪口をきっかけにコミュニケーションを楽しんでいることすらある。教育としては、悪口を阻止するのではなく、「相手が思わず笑ってしまう悪口を言った方が勝ち」のような遊びとして引き取って楽しむこともできる。谷川俊太郎の「わるくち」という詩は、そういうことを学ぶ上でかっこうの教材である。(興味がある人は下記の本などをご参照あれ)

いちねんせい

いちねんせい

かように、現在ではエスカレートしやすいことも、昔の子どもは、いじめらしきことをそれなりに手なずけてもいた。もちろん、昔がすべてバラ色だったというつもりはないが…。

「仲間外し」は子どもたちの原初的な社会制作ではないのか

さて、ここで、私が採り上げたいのは、「仲間はずし」についてである。あいち県民研究所の年報にも書いたのだが、「仲間外し」は場合によっては子どもたちの社会制作の原初形態であると言える。集団の掟に従わない者を外すことで、集団の活動の水準を維持するということはありうる話だ。たとえば、遊びのルールに従わないものを遊びから排除するというのは、ある意味で当然ではないのだろうか。サッカーで反則をしたらレッドカードで退場になるのが当然であるように。そのときに、重要なことは、掟が明確であり、掟が番人に共通に適用されることではないだろうか。つまり、掟に従えば仲間に戻れるし、どんなに権力者でも掟に逆らえば排除される。こういう掟の透明性と公平性が必要なのだ。

ところが、現在の仲間外しは、この透明性と公平性が欠けているところに問題があるのだ。むしろ、仲間外しそのものを活動として行っているような面があるのが問題なのだ。これは、集団的なというか仲間での活動の内容が貧困化してきていることとも関係しているだろう。

もし、仲間外しに社会制作の機能もあるのだとしたら、何でもいじめと言いうるような定義のもとで「いじめを行ってはならない」と言うことは、子どもたちから、社会制作の機会を奪ってしまうことにはならないだろうか。

保護者の責任にしたらどうなるか

さらに追い打ちをかけるように、法案には次のように定められている。

第九条 保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、その保護する児童等がいじめを行うことのないよう、当該児童等に対し、規範意識を養うための指導その他の必要な指導を行うよう努めるものとする。

つまり、児童はいじめを行ってはならないが、もし、子どもがいじめを行ったら親の責任だ、というわけである。

さきの例でいえば、我が子が悪口を言ったら「あなたのお子さんはいじめを行いました」と指弾され、責任が問われることにもなりかねないわけだ。そうなると、我が子と我が身を守るために親がなすべき残された道は、我が子に「他の子ども一切口をきかず、関わりももたないように」と指導することになるるだろう。

これでは、ますます子どもたちは社会制作どころではなくなる。学校に行ってはいるが、まわりに誰もいないかのように一人で孤独に過ごさなければならなくなるだろう。

しかも、口をきかず、関わりを持たなかったら、シカトしたとして、責められるかもしれないというオマケつきである。

子どもは失敗しながら成長する

さて、残された、2の(b)に話を移そう。

まず、子どもたちは失敗しながら成長するものなのだ。歩かない足には泥もつかないが筋肉もつかない。子どもたちは、さまざまな失敗をするものである。その失敗を教材にしながら適切な指導を受けることで、失敗を減らしたり、より適切な解決の仕方を学んでいくものではないのか。失敗が許されないのだとしたら、「算数でも国語でも問題の解き方を間違ってはならない」とも言えてしまう気がする。だって正しい解き方は、教えたはずだもん。間違えたときに、どこが間違ったのかを学び、よりよい解き方を理解していくから、子どもたちは賢くなっていくんだよね。

そうだとすれば、パワハラやセクハラやアカハラのような「大人はいじめを行ってはならない」というのは当然としても、「児童等は、いじめを行ってはならない」と言えるのかどうか。

むしろ、子どもたちはどんどん間違えて良いとさえ言えるのではないか。問題なのは、間違ったときに、どこがどう間違ったのか、いっしょに考え、よりより解決の仕方を教えられる教師や大人が不在なことではないのか。

昨日の話とも共通するが、結局は、失敗する子どもの生活に寄り添う時間も構えも奪われた現在の学校と教師のあり方にこそ問題があり、子どもたちは失敗するということを前提に、失敗したときにどのように指導することが子どもの発達を促すのか、というまともな教育観なしに、今回のような問題だらけの法案を提出する大人の側にこそ問題があるのではないか。

いじめ防止対策推進法への批判的コメント(1)―いじめを定義することの問題

 今回から何回かに分けて、自民、公明、民主、維新、みんな、生活が提出し、衆議院を通過した「いじめ防止対策推進法」のどこに問題があるのかを、教育実践に密接に関わる分野、とくに生活指導や教科外の領域で仕事をしている教育学研究者の立場から批判的に検討したい。

「それがいじめかどうか」を問題にせざるをえないのが法律

まず、この法律案では、いじめについて次のように定義されている。

第二条 この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。

「この法律において」と前書きがあることから分かるように、この法律以外の見方では、別のものでも「いじめ」と言いうるわけだ。なぜわざわざこのような前書きをつける必要があるかといえば、なんらかの事件が生じたときに、この法律が適用できるかどうかを確定しなければならないからだろう。

そうなると、「いじめ」らしき事件が起こったときに、この法律を適用するかどうかをめぐって、それがいじめかどうかを議論することになる。

これまでも、教育委員会文部科学省にいじめの件数を報告しなければならないことになっていた。そこでは、「いじめ」らしきことが起こったときに、文部科学省の「いじめ」の定義に照らし合わせて、「それがいじめかいじめでないか」を職員会議や問題行動等対策委員会などで延々と議論し、文部科学省の定義に該当しなければ教員集団は安堵し、該当すれば報告しなければならない=学校の落ち度が責められるかもしれない、と落胆してきたわけだ。

いずれにしても、学校→教育委員会文部科学省と報告していくためには、ある事件がいじめかどうかを明確に確定する作業が必要だったわけだ。

それが、法律ともなれば、さらにいっそう厳密に定義に当てはまるかどうかを議論しなければならなくなることは必至だ。

応答責任と説明責任

しかし、本来、「いじめ」らしきことがあったときに、教師にまず何が求められるか、ということを考えてもらいたい。心や体が傷ついている子どもや、なんらかの理由で他者の心や体を傷つけている子どもがいたら、すぐにその子どもたちと対話を始め、その子たちが抱えている問題の打開に向けて、ともに歩み出そうとするのが教師ではないのか。いじめの定義に該当しようがしまいが関係ない。子どもたちが何かに躓いていたり、苦しんでいたりするときに、そばにいて、一緒に考えるのが教師の役割のはずである。

要するに、教育とは子どもからの呼びかけに教師が応えることなのだ。

応答のことを英語ではレスポンス(response)というが、責任のことをレスポンシビリティ(responsibility)というのは、まさに責任とは応答責任だからなのだ。

ところが、いじめの件数を教育委員会文部科学省に報告するという話は、学校はきちんとやっているのかをタックス・ペイヤー(納税者)が監視できるように「見える化」する、すなわち、数値化することに関連している。ここではタックスペイヤーが学校教育に支払っているお金がきちんと使われているか、という会計(account)の観点から学校の責任を問題にしている。このような責任はアカウンタビリティ(accountability)と呼ばれ、日本語では説明責任と訳されたりする。

ここで注意してほしいのは、説明責任は、けっして子どもの教育を第一義としていないということである。学校は教育委員会の顔を見て、教育委員会文部科学省の顔を見て、文部科学省は納税者の顔を見て、「責任を果たしていますよ」という訳だ。もちろん、いじめの件数が増えれば、「仕事が不十分だ。もっと件数を減らせ」という圧力となり、いじめ問題に取り組むことにはなる。しかし、それはあくまでも、納税者の顔色をうかがって取り組むということだ。いじめへの対応が、「世間から『お叱り』を受けないように」ということに変質し、「子どもたちがこんなに苦しんでいるから放ってはおけない」という本来教師が持つべき態度(そして教師としての醍醐味の部分)が後退していくわけだ。(ちなみに、学力問題でも同じことが言える。わからないで困っている子どもを分かるようにするのが教師の応答責任だが、「学力テストの点数」で説明責任を果たすことが主要問題となり、教師にとって、理解の遅い/悪い子どもはお荷物に感じられるようになる。)

このことは、たとえば、今回の法律ではいっそう明確になっている。

第十一条 文部科学大臣は、関係行政機関の長と連携協力して、いじめの防止等のための対策を総合的かつ効果的に推進するための基本的な方針(以下「いじめ防止基本方針」という。)を定めるものとする。

第十二条 地方公共団体は、いじめ防止基本方針を参酌し、その地域の実情に応じ、当該地方公共団体におけるいじめの防止等のための対策を総合的かつ効果的に推進するための基本的な方針(以下「地方いじめ防止基本方針」という。)を定めるよう努めるものとする。

十三条 学校は、いじめ防止基本方針又は地方いじめ防止基本方針を参酌し、その学校の実情に応じ、当該学校におけるいじめの防止等のための対策に関する基本的な方針を定めるものとする。

ここに見られるように、上が方針を決めて、それを下が実施するという形になっており、上から言われたことに対応することが教育になってしまっている。

私は、この構造自体が、いじめを増加させているのだと言いたい。子どもと向き合い、子どもの成長に力を貸そうとする教師の基本的な姿勢こそが重視される学校にしていかなければならないのだが、いじめの件数の報告だとか、文部科学省がつくった基本方針を実施するとか、そういうことをさせることによって、教師はますます子どもに寄り添う時間や寄り添う姿勢から遠ざけられているのではないか。

滋賀のいじめ自死事件があった中学校でも、自死の直後に出された学校便りだったか学年便りだったかに、うろ覚えだが「いじめの定義にあてはまっていました。すみませんでした」的なコメントがあった。「いじめの定義に当てはまってました。すみませんでした」ではなく、「苦しみに気づけずに、ごめんね」だったり「寄り添えなくてごめんね」と言える学校ならば、もっと救いがあったと思うのは、私だけだろうか。


最後は、蛇足だが、結局の所、タックスペイヤーが外野からごたごたいうことによって、かえっていじめが増えるのだとすれば、それは会計(account)的に得なのか損なのか。ちょっと考えれば分かりそうなものなのだが。

「あいさつ」の教育学

「あいさつ」をテーマにした道徳の授業

先日、教職大学院の道徳教育関連の授業でのこと。
ティーム・ティーチングで一緒に授業をしているもう1人の先生を主たる教員として、「朝のウォーキング時に出会う人とのあいさつ」を内容とした新聞の読者投稿欄の記事をもとに道徳授業プランを受講生たちに作ってもらった。

投稿者の結論は、「はじけるような笑顔」のあいさつが一番気持ちがよいというものだった。

この記事に対して、各グループがそれぞれ独自の授業プランを作るわけだ。そこでは予想通り、多くの受講生が、「笑顔のあいさつ」、「大きな声のあいさつ」、「目と目を合わせるあいさつ」が良いものだという前提で、それを子どもたちにどう教えるのかという流れで授業プランを作っていた。「あいさつに個性があって良い。正解を決めるのは好きではない」という受講生も少数だが一定数いたことは付け加えておきたい。

「あいさつ」していないのは誰か?

ここで少し、多くの学校で見られる朝の風景を描いておきたい。小学校などでは登校してくる子どもたちに、正門の辺りで校長や教頭や何人かの教師が「おはようございます」と声をかけているのをよく目にする。そこでは、子どもが笑顔や大きな声であいさつを返さないと、きちんとできるまでしつこく「おはようございます」と迫っていく教師を見かけることがよくある。ひどい場合には「やり直し」とストレートに言ったりする。

さて、ここであいさつできていないのは誰なのか。単純に考えれば、笑顔の大きな声でのあいさつを返さない小学生だと考えるだろう。しかし、私は、あいさつできていないのは、教師の方ではないかと思うのだ。

どういうことか。それは、教師は形式的には子どもにあいさつしているが、それは、ちょうど英語の音読で「リピート・アフター・ミー」というのと同じではないかということだ。要するに、「おはようございます(と言いなさい)」と子どもたちに迫っているだけなのだ。相手のことを気遣って「おはよう。今日の調子はどうだい?」と訊いているわけではないのだ。

このことは、教師が子どもたちに丁寧語で「おはようございます」と言っているところからも読み取れるだろう。私の常識では、大人から子どもへは「おはよう」、子どもから大人へは「おはようございます」だ。教師が「おはよう」と呼びかけ、子どもが「おはようございます」と応答するのが自然ではないのか。なぜ教師が子どもに「おはようございます」と呼びかけるかといえば、やはりリピート・アフター・ミーなのだ。

あいさつはコミュニケーションの入り口

そもそもあいさつとは何かというのは、さまざまな議論がある。たとえば、あいさつは「私はあなたの敵ではありませんので安心して下さい」という機能を果たしているという主張もある。実際にそういう機能もあるだろうと思う。無視して通過されたら、「こいつは自分のことを嫌っているのか」と思い、その人を敵視することはありそうな話である。このことについては、最後にちょっとだけエピソードを交えて書くことにしたい。

あいさつにはいろいろな機能があるのだが、私は「あいさつはコミュニケーションの入り口の機能を果たす」と考えている。つまり、「おはよう」と声をかけても返事が無かったり、うつむいていたりしたら、「どうした? 元気がないなぁ。なにかイヤなことでもあったか?」とか、「ゆうべ夜更かししてまだ眠たいのか?」などと,次の応答を引き出すものなのだ。

それが「声が小さい。やり直し」などとなったら、せっかくのコミュニケーションがぶち壊しである。ひょっとしたら朝から両親が離婚騒動で一悶着あり、とてもいやな気分で登校してきているかも知れない。そんな子の心情に1ミリメートルも近づかないで、あいさつをやり直させるのだとすれば、それはいったい何のためのあいさつなのだろうかと思う。

笑顔で元気にあいさつすることを強要するようになると、子どもの心の変化もつかめなくなるだろう。極端な例を挙げれれば、子どもが自殺したあとに、教師は「信じられません。いつもあかるく元気にあいさつしてくれていたのに…」などということもなりかねないだろう。

この点で、海外のあいさつは、あいさつの本質をとてもよく突いていると思う。たとえば、
Hello, how are you doing?
と相手の調子を訪ねる。それに対して、相手も、
Fine!/Not bad./So-so. And you?
とかで応答する。無理に笑顔である必要はない。
Wie geht es Ihnen?(ヴィー・ゲート・エス・イーネン) 
と訊かれて、
Schlecht!(シュレヒト=悪い)
と応えたってかまわないわけだ。そこから、話が始まるのだ。

笑い話に、日本から英語圏の国に留学した人が病気になって病院に行ったとき、医者から
How are you?
と訊かれて
I'm fine, thank you.
と応えたというのがある。何で病院に来たの?という話だ。
日本では、英語の授業でもあいさつは形式なんだなぁってことだ。

コミュニケーション能力の育成などというと、あいさつ運動をしたがる学校が多いが、私からすれば、多くの学校でやっているあいさつ教育はディスコミュニケーション教育である。

誰にあいさつするのか

さて、私は中学校3年間を親元を離れて祖父母のもとで田舎暮らしをした。そのときのあいさつの経験は今でも忘れない。自転車で30分ぐらいかかる中学校だったが、中学生は、正門を出たところから、道行く人、田畑で農作業をしている人に出くわすたびに「帰りました(ただいま)」とあいさつしなければならなかった。

今考えて見ると、人口3000人程度の町では、ほとんどの人が知り合いなのだ。だから、こちらが相手を知らなくても、相手はこちらを知ってる。すくなくとも○○さんの家の孫だという認知をしている。だから、あいさつをしなければ、祖父母のところに、「おたくのお孫さんは…」となることだろう。

つまり、あいさつというのは、閉じた共同体で、お互いに共同体のメンバー性を確認するという意味もあるのではないか。最初に述べた「私はあなたの敵ではありません」ということだ。

ところが、都市化が進むと、閉じた共同体などはなくなってしまう。試しに東京の渋谷や名古屋の栄で、出会う人すべてにあいさつしてみればよい。一歩も前に進めなくなるだろう。

最近の学校は地域住民に学校評価を求めたりしているのだが、その回答ではしばしば「この学校の児童はあいさつもできない」が上位ランク入りする。しかし、都市化し、地域のつながりも薄くなったなかで、子どもがよく知らないと思っている相手に対してあいさつをするだろうか。タダでさえ、学校では知らない人が声をかけてきても応答しないように教育しているのではないか。

あいさつしろと言われたり、口をきくなと言われたり,子どもも大変である。都市化し、流動化し、バーチャル化した現代において、あいさつは、選択的なものにならざるを得ないのではないか。それなのに、学校教育では、古色蒼然としたというか、軍隊的なあいさつ教育が続けられる傾向にある。基本的にはあいさつしたいと思える親しい人との間であいさつし、そこで、お互いの状況を確認し合い、励ましたり、励まされたりするというコミュニケーションをとれれば、あいさつの役割は十分に果たせるのではないかと思うのだが…。こういう考え方を受け入れないのが日本の学校なんだろうなぁ…。

塩谷哲ライブ

本日は、夕方から久しぶりにブルーノートに行って、塩谷哲のバンドのライブを楽しんできた。
塩谷がSALT3を出したころに初めて聴いたつもりになっていたが、今日のMCの話だとSing Like Talkingやその後も佐藤竹善といっしょにやっていたとのことなので、聴いたことはあったんだなぁと思う。

それにしても、男性のピアニストでしかもまだ若い?から力強い音だった。で、ライブで初めて体験したのだが、曲がなんというか、うまく言葉に出来ないんだけど、直接言葉として聞こえてきたというか。いや、言葉として聞こえてきたというと、言葉にできないとまずいんだが、言葉というか、塩谷が作曲しているときの感情というか、そういうものが、直接自分の頭に届いたような感覚に襲われた(まあ、思い込みなんだろうけど)。これは、塩谷のMCでの語りとも関係あるかもしれないし、それが年齢が二つしか違わないから、なんとなく考えていることが似ているからなのかもしれない。

あとは、ドラムが山木秀夫だったのが感動かも。青山純とか山木秀夫とか、スタジオミュージシャンドラマーとして、数々のアーティストのアルバムで演奏している山木だが、生で聴いたのは初めてかも。

今日の演奏は、

からのナンバーを演奏したらしいが、ファンキーな曲あり、ハードロック調の曲あり、ピアノ・アコギ・パーカッションのトリオでのアコースティックな曲あり、リリカルなソロあり、スティービーワンダーのスーパースティションのカバーありで、さっそく注文してしまったのであった。

そもそも道徳の授業が行われていないことが問題なのか

さて、先日も道徳の教科化についての疑念を呈したところですが、本日は、もう少し違った視点から、道徳の授業の問題を論じてみたいと思います。

1.道徳の授業を行えば道徳性は向上するのか

人生経験もそれほど豊かではなく、他者との交流も不十分である私が見聞きする範囲での判断ではあるが、道徳の授業は、ここ10年くらいは、それ以前に比べれば行われる回数は増えていると思っている。

では、ここ10年で子どもたちの道徳性は向上したのだろうか。おそらく、多くの大人の答えは否であろう。このあたりの問題について下記の本を参照されたい。

日本を滅ぼす教育論議 (講談社現代新書)

日本を滅ぼす教育論議 (講談社現代新書)

 
仮に「近頃の子ども・若者の道徳はなっていない」という判断が正しいとしても、道徳の授業では何の解決にもならないということは、このことひとつをもってして明らかなのではないだろうか。

2.自分達(大人)が子どもの頃はまともだった?

さて、次のようなアンケート結果がある。ここからやや辛辣なことを述べてみたい。

「道徳」の教科化、どう思う?

道徳の授業がきちんと行われれば、子どもたちの道徳が向上すると思っている大人の多くは、現在の子どもたちに比べると、はるかに少ししかまともに道徳の授業を受けていない。だから、彼らは、きっと自分達の道徳がよほどひどいと感じているに違いない。そして「どうしてもっとちゃんと道徳的な人間になるように自分を育ててくれなかったんだ」と嘆いているのではないか。

もし、このアンケート結果が、そういうことを意味しているのだとすれば、大人も捨てたもんじゃないなぁ、と思う。

しかし、実際には違うだろう。「学力低下」論のときの世間の騒ぎ方もそうだったが、学力低下を批判する人達の多くは「近頃の子どもは学力が下がっているらしい」と捕らえているわけで、つまりは「昔は学力が高かった」と言いたい訳である。

しかし、多くの学者が国際学力調査を過去に遡って分析しているとおり、例えばTIMSSなどでは、順位の多少の変動はあるものの、学力はほぼ横ばいで「世界最高水準」というのが、実情である。

つまり、大人たちは、「近頃の子どもや若者は…」と言うことによって、あたかも自分達は優れているのだ、と自他に示すための、努力不要の効率的な手法をとっているに過ぎない。

ついでに言えば、大人の科学的発見に対する興味や、科学的教養について調べた国際比較調査では、日本はブービー賞のあたりで低迷しているのであって、日本の大人の教養は国際的に見てきわめて劣っているということを付け加えておこう。このことは、せっかく子どもの頃に詰め込んで世界トップ水準の学力を身につけていても、無理矢理やらされていたり、受験のためだけに勉強しているので、すぐに剥がれ落ちる学力であったということでもある。

さて、本題に戻れば、「他人を貶めて自分を上に見せようとする」わけだから、道徳的でないことこの上ないわけだが、まあ、ほとんどまともに道徳の授業がされてこなかった大人の判断だから、許してあげるしかないかも知れない。

3.何が原因なのか

でも、私も個人的には、子ども(と大人)は自己チューになっている、と思っている。しかし、原因は道徳教育の不足にあるのではなく、自己チューになってしまう社会の仕組みがあるからだということだ。朝起きてから夜寝るまで、四六時中、社会から「自己チューになりなさい」と教育されているのに、一週間に1回程度、道徳の授業をしたとしても、焼け石に水というものである。社会から「自己チューになれ」と教育されているというとき、さまざまなルートがある。

(1)新自由主義

まず第一に、新自由主義社会である。新自由主義は自己選択、自己決定、自己責任を基本原則とする。つまり、「最後は自分が責任を取らされるのだから、迷惑をかけない限り何をしようが勝手だろう」という論理を認めてしまうことになる。ましてや、格差社会の進行と貧困の増大によって、その責任の取らされ方が「生死を分かつ」ような水準に近づいてくると、「多少の迷惑をかけても、結果が自分に有利になるようにしなければならない」ということになっても不思議ではない。

(2)個人消費主義

電子レンジもない昔の暮らしなら、家族で揃ってご飯を食べないと温かいご飯は食べられなかった。しかし、電子レンジが登場して、いつでも温めて食べられるようになった。それどころか、コンビニの普及によって、家族と一緒に、家族と同じものを食べる必要すら薄くなっている。このように、コンビニの普及は、自分の好きなときに、好きなものを食べるという生活を支えてしまっている。これによってコンビニ会社(店舗ではない!)は、ボロもうけしながら、子ども(と大人)の自己チュー化になんの責任も取らないわけである。

(3)技術の発達

たとえば、自分が若い頃、彼女の家に電話するには、固定電話しかなかったわけだ。彼女の父親や母親が出るかも知れないわけで、敬語を使ったりしないわけにはいかなかった。しかも、非常識な時間に電話するわけにはいかない。ところが、現在は携帯電話がある。好きなときに友だちに直接電話やメールができるわけだ。第三者を介する必要はないし、時間を気にする必要もない。自分の都合を中心にしてコミュニケーションできるわけだ。でこうして携帯電話会社はボロもうけしながら、子ども(と大人)の自己チュー化に何の責任も取らないわけである。

挙げればきりがないわけだが、要するに,大人が子どもたちを金儲けの餌食にしていることによって、子どもたちが自己チュー化している面が多分にあるわけだ。このような状況を放置して、子どもが道徳的に問題だなどと騒いでいる大人の方が問題だ。そういえば、五味太郎が次のような本を出していたが、なかなか鋭いところを突いていると思う。

大人問題 (講談社文庫)

大人問題 (講談社文庫)

なぜ生活保護世帯が増え、生活保護バッシングが増えるのか

はじめに

さて、内閣は、生活保護の受給額を減らし、さらに受給要件を厳しくして、できるだけ受給できなくしようとする方向で閣議決定したようだ。

詳しくは

生活保護 入り口で締め出し 法改悪案を閣議決定

生活保護法改正法案、その問題点(大西連 / もやい)

を参照のこと。

本来生活保護をもらう資格がある世帯が実際にどの程度もらえているのか、といういわゆる「捕捉率」が、日本では、ヨーロッパ諸国に比べて極めて低くなっていることが専門家の間で繰り返し指摘されている。現政権は、生活保護を受給する資格のある人たちをさらに閉め出すことに躍起で、捕捉率を上げようなとどいうつもりは毛頭ないようだ。
このような国際的に見て情け容赦のない政策が堂々と遂行できるのは、多くの日本人が、マスコミによる生活保護受給者バッシングにも影響されて、政府と同じような姿勢をとっているからだろう。

ここでは、なぜ生活保護が増えるのか、そしてなぜ生活保護バッシングが増えるのかということについて、もう少し根本的なとこまで掘り下げて明らかにしたい。

最初に断っておくが、以下の記述はあくまで概念モデルであって、正確な数字を反映したものではない。不十分なところは、財政や税金の研究者たちが具体的数字をあげて補完してくれることを期待してやまない。

全体的な変革の概念図

以下、下の図を元に解説しておきたい。

この図は、大きく、左右、二つの図からなる。左が過去で、右が現在である。

それぞれの図で、一番左は企業の収入のうち、どれだけが企業自体の収益となり、賃金に支払われ、税金を納めるのかというのを、概念的に示している。さらにその右に、賃金をもらう人のうちわけを、貧困層、中間層、富裕層にわけ、そのまた右に、それぞれの階層が払う所得税と、法人が払う法人税を合計するような概念図として示してある。

くどいようだが、具体的な割合を正確に反映させているわけではなく、あくまで考え方を示すために作った図である。

なぜ生活保護世帯が増えるのか

第一に、なぜ生活保護世帯が増えたのかという問題である。以前の企業の収入のうち、賃金に支払われる分量を、左の図と右の図で比較してもらいたい。正規社員をどんどん派遣労働やパート・アルバイトなどの非正規雇用に置き換えていくことによって、企業は労働コストを削減してきた。人口が大きく減っているわけではないなかで、賃金が減っているということは世帯あたりの賃金が減っているということになる。だから、当然貧困層が増えることになる。生活保護受給資格のある世帯が増えるということだ。このことは、およそここ20年にわたって、世帯あたりの所得が低下の一途を辿っていることで裏付けられる。2012年7月5日の日本経済新聞の記事でも、「世帯所得、昭和に逆戻り」という記事が掲載されとおりだ。

なぜ生活保護バッシングが増えるのか

第二に、なぜ生活保護バッシングが増えたのかという問題である。生活保護の財源は、当然のことながら、税金である。しかし、一般世帯の賃金が減ったことによって、所得税の税収は減ることになる。さらに、高額所得者の税率が下げられてきたこともあって、高額所得者の全体所得は多くても、税収は減る。さらに、企業は、国際競争力から内部留保が必要だの、法人税が高いから海外に移転するだのと、さまざまな脅しをかけて、法人税を下げさせてきた。もちろん、税率だけの問題ではなく、法人に対する様々な税の控除を含めての話である。

このことで税収全体が落ち込み、生活保護世帯に支払う原資が減るわけだが、生活保護受給資格のある世帯が増えているので、矛盾が生じることになる。それだけではなく、中間層と言われている人たちも、貧困層ギリギリの世帯が増えるので、貧困層を「養っている」ゆとりがなくなる。こっちはギリギリなんだから、他人の世話まで焼いていることはできない、というわけだ。このような状況が、生活保護世帯バッシングを生み出しているのだ。こんな状況で、生活保護を受ける前に親族で助け合えというのは、ほとんどの場合、無謀というほかないのだが。

労働者全体のパイを増やさないと解決しない

しかし、生活保護の申請をしにくくして、すでに北九州などで起こっているような餓死事件が日本中で頻発してもかまわないという棄民を前提にするなら話は別であるが、生活保護の受給世帯を攻撃しても基本的な問題は解決しない。

図を見ればわかるように、労働者の取り分である賃金の部分のパイを増やさなければ、問題は解決しない。労働者のパイを増やしたら、貧困層も減るから生活保護受給資格のある世帯が減るし、所得税も増えるから、問題は一挙に改善に向かう。人々の暮らしにゆとりが出てくると、弱者が救われることに不満を漏らす人も減るし、場合によってはそれこそ自然に親族で助け合うことも出てくるかもしれない。

企業はできるだけ負担を減らすができるだけたくさん恩恵を受けようとする

図を書いたので、ついでに言っておくと、企業は、法人税が高いといって、タックスヘブンといわれる法人税の低い国に本社機能を事実上なのか登記上なのかしらないが、移転したりして税金逃れをする。先日も、イギリスのスターバックスなどでこれが問題にされていたと記憶している。こうやって、企業誘致のために国家間で法人税率を引き下げる競争をしたらどうなるだろうか。企業はできるだけ税金を支払わず、労働者は、ただでさえ少なくなった賃金のうちから税金を搾り取られ、その血税で、企業が利用する道路・港湾などのインフラにお金が回されることになる。企業を誘致して仕事があったとしても、賃金が少なくて、しかも税金を取られて、それが福祉ではなく、企業のインフラ整備に使われるとなると、なんのために働いているのかということになる。

そろそろ、国際的な最低法人税率の策定など、世界的な企業の規制の仕組みをつくらなければならないのではないかと思ったりする。

西山瞳ライブ

昨日夜、ジャズピアニスト西山瞳さんのライブに出かけた。

新譜

シンパシー / Sympathy

シンパシー / Sympathy

発売記念ツアーの初日ということで名古屋のJazz Inn Lovelyで19:30からライブがあったわけだ。

一応、大学時代ジャズ研だったこともあり、ある程度はJazzを聴くのだが、実は、西山瞳さんのことは少し前までは全く存じ上げなくて、以前たまたまTwitterでフォローしていただいたご縁で聴くようになったわけだ。半年ぐらい前だろうか、バイオリニストの牧山純子さんが入ったカルテットのライブを聴きに行ったのが、生演奏の西山瞳初体験であった。

さて、昨日は、オーソドックスなピアノジャズトリオだったわけだが、お恥ずかしながらというか、最初にピアノが流れてきたとたんに、「あれ? ビル・エバンスか?」と思ったという次第で、前回まったくそんな聴き方をしていなかった自分に対して「何を聴いていたのだろうか」と、情けなくなる。

オリジナル曲だったわけだが、曲調がなのか、弾き方がなのか、ビル・エバンスなんだよね。

じゃあ、何がビル・エバンスかと言われると、あまり真面目に4ビートジャズを聴いていない身としては、うまく言葉で表現できないので、絵画的に表現してみることにする。

まず、なんとなく波である。水辺で波が何度も押し寄せてくる感じだ。その波は、高波ではなく、穏やかな日の海辺か、あるいは風の強い日の川辺か、という感じだろうか。

で、時間はなんとなく夜である。ジャズなので、夜っぽいのは当たり前かもしれない。では、どんな夜かというと、まず熱帯でも、冷帯でもなく、温帯の夜である。しかも、季節は夏でも冬でもないという感じ。春というには肌寒い感じもするし、秋というには暖かさがあるようにも感じられる夜である。しかも、真っ暗な夜ではなく、それなりの月明かりがあって、夜の景色のディーテールが見分けられるような夜だったり、やや水の波紋がキラキラと反射しているような夜明け前の水面だったりする。

冷たいような情熱的でもあるような波が、途切れなく押し寄せてくる感じだ。西山瞳さんのほうがビルエバンスよりもさらに凜とした側に針が振れてるかもしれないかな。

上手く伝わっているのかどうか心許ないが、あくまで私の印象なので、参考になるとは思えない。なんのために書いているのやら。

で、昨日はたまたま、西山瞳さんの1メートルくらい斜め後の座席で、鍵盤の上を流れるように動き回る指も眺めていたのだが、どうすればあのようになめらかに指が動くのだろうか、というのがもう一つの感想。クラシックのピアニストのようなメカニカルで力強い感じはしない。音楽が波のように感じたのと、流れるようにというのは、関係あるのだろうか。

西山瞳さん以外のメンバーもなかなか良かった。歌いながらウッドベースを弾く人もよかったが、もともと私自身がドラムを叩くので池長一美さんというドラマーは、良い意味で発見だった。基本的なドラムセットで、なおかつ、フロアタムをスティックとか、マレットとかの物置にしつつ(笑)、シンバルとスネアを中心に、あれだけ多彩な音を出せるんだなと。一番気に入ったのは、竹ひごか、編み物針か、菜箸のようなものを束ねたスティックかな。良い音色を出していた。以前、村上ポンタ秀一がドラムクリニックの時だったか、繊細な音を出すときは、菜箸で叩くといっていたのを思い出した。

いずれにしても良い夜だった。

ただ、私自身が基本的に21時に寝て、午前3時に起床する人なので、19:30-20:30あたりの前半は集中して聴けたが、21:00-22:00あたりの後半は、ほとんど子守歌状態で、トランスしてたというよりも、寝てました。すみません。というかお金と時間がもったいない。でも、揺りかごが人を心地よくして眠りに誘うのだとすれば、波がとめどなく押し寄せるような演奏も眠りに誘うのかな。こう言えば、演奏を褒めたことになるんのかどうか謎だけど(笑)。