いじめ防止対策推進法への批判的コメント(1)―いじめを定義することの問題

 今回から何回かに分けて、自民、公明、民主、維新、みんな、生活が提出し、衆議院を通過した「いじめ防止対策推進法」のどこに問題があるのかを、教育実践に密接に関わる分野、とくに生活指導や教科外の領域で仕事をしている教育学研究者の立場から批判的に検討したい。

「それがいじめかどうか」を問題にせざるをえないのが法律

まず、この法律案では、いじめについて次のように定義されている。

第二条 この法律において「いじめ」とは、児童等に対して、当該児童等が在籍する学校に在籍している等当該児童等と一定の人的関係にある他の児童等が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう。

「この法律において」と前書きがあることから分かるように、この法律以外の見方では、別のものでも「いじめ」と言いうるわけだ。なぜわざわざこのような前書きをつける必要があるかといえば、なんらかの事件が生じたときに、この法律が適用できるかどうかを確定しなければならないからだろう。

そうなると、「いじめ」らしき事件が起こったときに、この法律を適用するかどうかをめぐって、それがいじめかどうかを議論することになる。

これまでも、教育委員会文部科学省にいじめの件数を報告しなければならないことになっていた。そこでは、「いじめ」らしきことが起こったときに、文部科学省の「いじめ」の定義に照らし合わせて、「それがいじめかいじめでないか」を職員会議や問題行動等対策委員会などで延々と議論し、文部科学省の定義に該当しなければ教員集団は安堵し、該当すれば報告しなければならない=学校の落ち度が責められるかもしれない、と落胆してきたわけだ。

いずれにしても、学校→教育委員会文部科学省と報告していくためには、ある事件がいじめかどうかを明確に確定する作業が必要だったわけだ。

それが、法律ともなれば、さらにいっそう厳密に定義に当てはまるかどうかを議論しなければならなくなることは必至だ。

応答責任と説明責任

しかし、本来、「いじめ」らしきことがあったときに、教師にまず何が求められるか、ということを考えてもらいたい。心や体が傷ついている子どもや、なんらかの理由で他者の心や体を傷つけている子どもがいたら、すぐにその子どもたちと対話を始め、その子たちが抱えている問題の打開に向けて、ともに歩み出そうとするのが教師ではないのか。いじめの定義に該当しようがしまいが関係ない。子どもたちが何かに躓いていたり、苦しんでいたりするときに、そばにいて、一緒に考えるのが教師の役割のはずである。

要するに、教育とは子どもからの呼びかけに教師が応えることなのだ。

応答のことを英語ではレスポンス(response)というが、責任のことをレスポンシビリティ(responsibility)というのは、まさに責任とは応答責任だからなのだ。

ところが、いじめの件数を教育委員会文部科学省に報告するという話は、学校はきちんとやっているのかをタックス・ペイヤー(納税者)が監視できるように「見える化」する、すなわち、数値化することに関連している。ここではタックスペイヤーが学校教育に支払っているお金がきちんと使われているか、という会計(account)の観点から学校の責任を問題にしている。このような責任はアカウンタビリティ(accountability)と呼ばれ、日本語では説明責任と訳されたりする。

ここで注意してほしいのは、説明責任は、けっして子どもの教育を第一義としていないということである。学校は教育委員会の顔を見て、教育委員会文部科学省の顔を見て、文部科学省は納税者の顔を見て、「責任を果たしていますよ」という訳だ。もちろん、いじめの件数が増えれば、「仕事が不十分だ。もっと件数を減らせ」という圧力となり、いじめ問題に取り組むことにはなる。しかし、それはあくまでも、納税者の顔色をうかがって取り組むということだ。いじめへの対応が、「世間から『お叱り』を受けないように」ということに変質し、「子どもたちがこんなに苦しんでいるから放ってはおけない」という本来教師が持つべき態度(そして教師としての醍醐味の部分)が後退していくわけだ。(ちなみに、学力問題でも同じことが言える。わからないで困っている子どもを分かるようにするのが教師の応答責任だが、「学力テストの点数」で説明責任を果たすことが主要問題となり、教師にとって、理解の遅い/悪い子どもはお荷物に感じられるようになる。)

このことは、たとえば、今回の法律ではいっそう明確になっている。

第十一条 文部科学大臣は、関係行政機関の長と連携協力して、いじめの防止等のための対策を総合的かつ効果的に推進するための基本的な方針(以下「いじめ防止基本方針」という。)を定めるものとする。

第十二条 地方公共団体は、いじめ防止基本方針を参酌し、その地域の実情に応じ、当該地方公共団体におけるいじめの防止等のための対策を総合的かつ効果的に推進するための基本的な方針(以下「地方いじめ防止基本方針」という。)を定めるよう努めるものとする。

十三条 学校は、いじめ防止基本方針又は地方いじめ防止基本方針を参酌し、その学校の実情に応じ、当該学校におけるいじめの防止等のための対策に関する基本的な方針を定めるものとする。

ここに見られるように、上が方針を決めて、それを下が実施するという形になっており、上から言われたことに対応することが教育になってしまっている。

私は、この構造自体が、いじめを増加させているのだと言いたい。子どもと向き合い、子どもの成長に力を貸そうとする教師の基本的な姿勢こそが重視される学校にしていかなければならないのだが、いじめの件数の報告だとか、文部科学省がつくった基本方針を実施するとか、そういうことをさせることによって、教師はますます子どもに寄り添う時間や寄り添う姿勢から遠ざけられているのではないか。

滋賀のいじめ自死事件があった中学校でも、自死の直後に出された学校便りだったか学年便りだったかに、うろ覚えだが「いじめの定義にあてはまっていました。すみませんでした」的なコメントがあった。「いじめの定義に当てはまってました。すみませんでした」ではなく、「苦しみに気づけずに、ごめんね」だったり「寄り添えなくてごめんね」と言える学校ならば、もっと救いがあったと思うのは、私だけだろうか。


最後は、蛇足だが、結局の所、タックスペイヤーが外野からごたごたいうことによって、かえっていじめが増えるのだとすれば、それは会計(account)的に得なのか損なのか。ちょっと考えれば分かりそうなものなのだが。