いじめ防止対策推進法への批判的コメント(2)―「いじめ」は本当に行ってはならないものなのか
今日は、かなり挑発的な副題をつけてみた。
そのまえに、まず昨日の投稿を思い出してほしいのだが、私は、いじめを定義することは問題の解決につながらないと考えており、学問的にはいざ知らず、実践的には定義は重要ではないと考えている。
だから、副題でひょっとして行ってもよいかもしれない「いじめ」は、世間では許しがたい「いじめ」とは別のものかもしれないことをお断りしておく。
「いじめ」を飼い慣らす
いじめ防止対策推進法には次の条文がある
第四条 児童等は、いじめを行ってはならない。
この条文には二つ疑問がわく。
1.こんなことでいじめがなくなるなら、誰も苦労しない。単純にあほらしいと思ってしまう。
2.本当にいじめを行ってはならないのだろうか。第二の点については、さらに細かく二つに分けて考えたい。
(a)文字通り「いじめ」をおこなってはならないか、
(b)発達途上にある「児童」に禁止することは果たしてよいのか、
ということである。
まず2の(a)から考えてみよう。
通常、いじめと称されるもののなかには、成人であれば犯罪になるような暴行・恐喝から、シカトといわれる仲間外し、陰口・悪口まで含まれると思われる。
もちろん、暴行・恐喝等は行ってはならない、と断定してもよさそうだ。しかし、これだって、私が子どもの頃には、学校でとっくみあいのケンカなどがあり、もしそれを暴行だと呼べば呼べないこともない。昨日示した法案のいじめ定義で見られるように、定義には特に期間の定めもないので、たった一回の大げんかでも「当該行為の対象となった児童等が心身の苦痛を感じてい」たらいじめになってしまうわけだ。
ところが、昔の学校では、「先にどちらかが泣いたらケンカは終わり」みたいなルールが子どもたちに共有されていた。また、正義の味方みたいな子もいて、一方的なケンカは止めに入ったり、制裁したりしていたこともあった。
また、小学生なら悪口なんてあたりまえで、「バ〜カ!」「バカって言った方がバカだ」「バカって言った方がバカって言った方がバカだ」、といった具合に、悪口をきっかけにコミュニケーションを楽しんでいることすらある。教育としては、悪口を阻止するのではなく、「相手が思わず笑ってしまう悪口を言った方が勝ち」のような遊びとして引き取って楽しむこともできる。谷川俊太郎の「わるくち」という詩は、そういうことを学ぶ上でかっこうの教材である。(興味がある人は下記の本などをご参照あれ)
- 作者: 谷川俊太郎,和田誠
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 1987/12/10
- メディア: 単行本
- 購入: 5人 クリック: 121回
- この商品を含むブログ (12件) を見る
かように、現在ではエスカレートしやすいことも、昔の子どもは、いじめらしきことをそれなりに手なずけてもいた。もちろん、昔がすべてバラ色だったというつもりはないが…。
「仲間外し」は子どもたちの原初的な社会制作ではないのか
さて、ここで、私が採り上げたいのは、「仲間はずし」についてである。あいち県民研究所の年報にも書いたのだが、「仲間外し」は場合によっては子どもたちの社会制作の原初形態であると言える。集団の掟に従わない者を外すことで、集団の活動の水準を維持するということはありうる話だ。たとえば、遊びのルールに従わないものを遊びから排除するというのは、ある意味で当然ではないのだろうか。サッカーで反則をしたらレッドカードで退場になるのが当然であるように。そのときに、重要なことは、掟が明確であり、掟が番人に共通に適用されることではないだろうか。つまり、掟に従えば仲間に戻れるし、どんなに権力者でも掟に逆らえば排除される。こういう掟の透明性と公平性が必要なのだ。
ところが、現在の仲間外しは、この透明性と公平性が欠けているところに問題があるのだ。むしろ、仲間外しそのものを活動として行っているような面があるのが問題なのだ。これは、集団的なというか仲間での活動の内容が貧困化してきていることとも関係しているだろう。
もし、仲間外しに社会制作の機能もあるのだとしたら、何でもいじめと言いうるような定義のもとで「いじめを行ってはならない」と言うことは、子どもたちから、社会制作の機会を奪ってしまうことにはならないだろうか。
保護者の責任にしたらどうなるか
さらに追い打ちをかけるように、法案には次のように定められている。
第九条 保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、その保護する児童等がいじめを行うことのないよう、当該児童等に対し、規範意識を養うための指導その他の必要な指導を行うよう努めるものとする。
つまり、児童はいじめを行ってはならないが、もし、子どもがいじめを行ったら親の責任だ、というわけである。
さきの例でいえば、我が子が悪口を言ったら「あなたのお子さんはいじめを行いました」と指弾され、責任が問われることにもなりかねないわけだ。そうなると、我が子と我が身を守るために親がなすべき残された道は、我が子に「他の子ども一切口をきかず、関わりももたないように」と指導することになるるだろう。
これでは、ますます子どもたちは社会制作どころではなくなる。学校に行ってはいるが、まわりに誰もいないかのように一人で孤独に過ごさなければならなくなるだろう。
しかも、口をきかず、関わりを持たなかったら、シカトしたとして、責められるかもしれないというオマケつきである。
子どもは失敗しながら成長する
さて、残された、2の(b)に話を移そう。
まず、子どもたちは失敗しながら成長するものなのだ。歩かない足には泥もつかないが筋肉もつかない。子どもたちは、さまざまな失敗をするものである。その失敗を教材にしながら適切な指導を受けることで、失敗を減らしたり、より適切な解決の仕方を学んでいくものではないのか。失敗が許されないのだとしたら、「算数でも国語でも問題の解き方を間違ってはならない」とも言えてしまう気がする。だって正しい解き方は、教えたはずだもん。間違えたときに、どこが間違ったのかを学び、よりよい解き方を理解していくから、子どもたちは賢くなっていくんだよね。
そうだとすれば、パワハラやセクハラやアカハラのような「大人はいじめを行ってはならない」というのは当然としても、「児童等は、いじめを行ってはならない」と言えるのかどうか。
むしろ、子どもたちはどんどん間違えて良いとさえ言えるのではないか。問題なのは、間違ったときに、どこがどう間違ったのか、いっしょに考え、よりより解決の仕方を教えられる教師や大人が不在なことではないのか。
昨日の話とも共通するが、結局は、失敗する子どもの生活に寄り添う時間も構えも奪われた現在の学校と教師のあり方にこそ問題があり、子どもたちは失敗するということを前提に、失敗したときにどのように指導することが子どもの発達を促すのか、というまともな教育観なしに、今回のような問題だらけの法案を提出する大人の側にこそ問題があるのではないか。