広島県府中町の中学生自死について(続編)

前回のブログのなかで、新聞記事を引用したが、そのなかに、校長が担任を非難するような文言があったのを確認して頂きたい。
とくに注意して頂きたいのは、「校長が担任を非難」というところだ。

しかし、今回、琉球新報の社説によって、あらたな事実が明らかにされた。その中学校では、それまで、中3になって以降に問題行動があった場合は、推薦しないという方針だったのを、校長が昨年11月に、入学時以降の問題行動があった場合に推薦しないという方針に変えたというものだ。

記事を見てみよう。

この学校がそうした方針にしたのは本年度のことである。従来、推薦要件の「問題行動や触法行為がない」期間の対象は中3の時だけだった。だが昨年11月に突然、対象時期を在校時全体に広げた。
 その際「過去に触法行為があってもその後頑張っている生徒は推薦対象にしたい」との反対意見もあった。亡くなった生徒の担任も反対だったとされる。だが最後は校長の判断で「一発アウト」が決まった。今回の自殺を機に元の基準に戻したというから、朝令暮改でもある。迷走する基準で進路を左右される生徒が気の毒だ。

<社説>「一発アウト」 子と向き合える体制こそ

この記事の中で、反対意見もあったし、件の担任も反対していたのに、「最後は校長の判断で『一発アウト』が決まった」とある。

これが、昨今、文部科学省が進めている、校長のリーダーシップの強化のなれの果てである。従来、かなりフラットな組織であった学校を、文科省は、上意下達機関に変質させてきた。2000年には「学校教育法施行規則等の一部を改正する省令」を出して、職員会議は決定機関ではなく、校長の補助機関という位置づけを明確にしたし、昨今、大学でもそうだが、ガバナンス強化など、とにかく下々は上の命令に従えという体制を強烈に推し進めている(ちなみに、社会科学ではガバナンスというのは、合意形成なので、文部科学省はガバナンスという言葉の意味を取り違えている。完全な誤用だ。文部科学省のやりたいことを横文字で表せば、ディクテーターシップである)。

恐らく、職員会議できちんと話し合って決めていたら、こんなばかげた方針にはならなかったであろう。なぜなら、一発アウトになると、一度でも問題を起こした生徒は「どうせどれだけ改心したって、おれの将来はダメなんだろ?」と自暴自棄なることは、誰が考えても明らかだからだ。

そうなると、教員は対応の手立てがほとんどなくなる。教師が生徒を指導し続けるためにも、「失敗にくじけず、頑張って道を開こう」と言える状況を確保しておくことが必要なのだ。校長は、直接生徒を指導しなくて済むから、このように、およそ非現実的な決定を安易に下してしまう。

つまり、今回の事件から言えることは、トップダウンという体制が、教育現場をちっともよくしないどころか、むしろ悪化させるということだ。

だから、今回の事件の土台には、文科省の誤った学校政策・教育政策、そして、それに乗っかって最前線の教員の意見を聞かずに、無責任なことを決めた校長、という存在があることを確認しておく必要がある。