非行事実誤認による進路指導の結果、中学生が自死した事件について

広島県府中町の中学校で、中1のときの万引き歴を理由に推薦入試が受けられず、それによって中学生が自死した。しかし、実は、万引き歴自体が誤りであったということがわかり、当該中学校に全国から抗議が殺到しているという。

ニュースの焦点は、ほぼ「万引き事実の誤認がけしからん」というものであり、世間の批判もそこにあるようだ。

だから、次のニュースのようにどうやって万引き事実を確認したのかということが問題となり、どうやってそういうミスが出ないようにするか、という対策に終始する事になる。

坂元校長は教諭の対応について「生徒の非行歴を含む重要な進路指導が廊下で行われたことは非常に問題。来年度から準備室のような場での指導を教員に指示していく」としており、「組織体制の見直しが最優先。それができなければ学校再生はあり得ない」と話した。

http://mainichi.jp/articles/20160309/k00/00e/040/261000c

そして、この間違えた担任に対する批判がニュースの中心になる。

担任が体調不良を理由に保護者会を欠席したため、生徒の両親が「なぜ責任者が説明しないのか」と涙ぐみながら、抗議していたという。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_date1&k=2016030900010

担任のミスがなければ、生徒は自死に至らずにすんだだろうから、そこに注目があつまるのはある意味で当然なのかもしれない。

しかし、教育学を研究している立場からいうと、問題はそこじゃないじゃん、と思う。仮に、自死した生徒が実際に中学1年生のときに万引きしていたとしても、それで高校に推薦しないということ自体が誤りなのではないか。もちろん、中1で万引きした生徒が、中2になっても中3になっても万引きを繰り返しているなら、話は別かもしれない。しかし、2年も前の万引きで、生徒の将来が決まってしまうというのはおかしくないか。子どもは一度過ちを犯したら、一生、その十字架を背負って生きていかなければならないのか(いじめで他人を自殺に追い込んだりしたのなら、それは背負って生きていくべきだとは思うが)。

学校は、子どもたちに烙印を押す場ではなく、子どもたちを産み変える場のはずである。仮に過ちを犯した子どもがいたとしても、悔い改めて、更生したのであれば、そこを出発点に、また進路を選んでいけるようにするべきではないのか。非行に走っている浮浪児をあつめて寄宿舎で教育を行った旧ソ連の教育実践家であり、理論家であるマカレンコは、子どもに「過去は問わない」と言っている。過去に過ちがあっても、問題なのは、これからどう生きるのかだということである。また、フランスの詩人、ルイ・アラゴンの詩「ストラスブール大学の歌」に「教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸に刻むこと」という一節がある。教師は、子どもたちに希望を語るものではなければならない。しかるに、現代の日本の学校は、子どもたちに絶望を語っているのはではないか。

なぜこのようなことになるのかと言えば、中学教育の目的が、子どもたちを賢く育て、世の中のことがよくわかるようにし、社会を主体的に形成していける大人を生み出すことや、他者の境遇に思いをいたし、支え合える人間を育てることではなくなっているからだ。やや強い言い方をすれば、中学校教育は、子どもたちを教師の言いなりに動かすことになってしまっているのではないか(個々の教員がそうしようとしていると言う意味ではなく、日本の教育システムが、教員の仕事をそのようなものにしてしまっている)。今回の事件の発端となった、非行歴などによって推薦をする/しないを決める理由の大半は、「悪いことをしたら推薦されない」という脅し以外に何があるのだろうか。脅しという意味では、内申書も同様である。

だから、全国からこの学校に非難を集中させる暇があったら、それぞれが自分の地元の学校で、非行歴が進路指導にどのように利用されているのかを問うてほしい。

最後に付け加えておくが、もちろん、万引きはよくない。しかし、それがよくないと教えるのなら、脅しによってではなく、理解させることを通してだ。推薦されなくなるから万引きしないという教育は、単に私利私欲を教えていることにしかならない。そのような教育をしているから、自分が濡れないためには、傘一本ぐらい盗んでもよいだろうというような人が生まれるのではないか。