オリンピックから学ぶこと(備忘録)

リオ・オリンピックが終わった。

日本にいると、水泳、柔道、レスリング、卓球、体操、バドミントン、陸上などメダルラッシュで「日本スゲー」という報道に偏っているように思う。政府や財界やメディアは「近頃の若者は内向きだ」としばしば若者バッシングをするが、「いやいや政府やメディアが率先して『内向き』にさせてるでしょう」と言わざるを得ないように思われる。

せっかくなので、東京オリンピックも見据えつつ、今後、内向きにならずにオリンピックを学びのテーマにするために、このオリンピックで考えた事や、この期間に報道等で知ったことについてメモしておきたい。

コマーシャル・ファーストなオリンピック

 オリンピックのひとつのモットーとしてアスリート・ファーストという言葉がある。選手を第一に考えるということだ。しかし、実態は、コマーシャル・ファーストだということだ。
 典型的なのは、真夏には不向きな長時間にわたるスポーツが行われることだ。マラソン競歩などが典型だ。いつか熱中症で死者がでるのではないかと懸念する。リオでもミストなどで暑さ対策をしていたが、競歩ではふらつく選手が多数いたのは記憶に新しい。東京都知事選挙の準備段階で宇都宮氏が「東京オリンピックを10月に実施する」という政策を提案していたのも、アスリート・ファーストからの発言だろう。私は1964年10月12日生まれだが、それは東京オリンピックの開会式の2日後のことであり、かつては9月〜10月に開催されていたのだ。体育の日が10月10日だったのはオリンピックの開会式にちなんだものだ。しかし、今や10月開催は決して実現し得ないだろ。IOCが首を縦に振るわけがないからだ。というのも、9月や10月になるとアメリカでは、アメフトやバスケットのリーグ戦が始まる。だから、オリンピックと視聴率の奪い合いになる。しっかり見てもらえなければ、協賛企業のコマーシャルも見てもらえないため、コマーシャル料が稼げないのだ。オリンピックはスポーツをネタにしたIOCという国際機関の官僚とスポーツブランド企業とメディアが結託した金儲けの機会になってしまっているのだ。

 こういうこともあった。卓球男子団体の準々決勝(日本VS香港)の時間が二転三転し、変更になったことを知らなかった日本男子チームはあわてて会場に向かったというニュース記事を見たが、どうやらこれも放送時間が日本で午前3時になるを避けて夜10時にすれば、日本でも香港でもテレビ視聴率が上がるという思惑が働いたようだ。監督も選手も知らないうちに試合時間が大幅変更されるって、どこがアスリート・ファーストなんだか…。
試合開始時間が二転三転、日本が猛抗議 卓球男子団体戦(朝日新聞デジタル)

ネーション・ファーストな日本

 また、閉会式のアベマリオについて、日本では絶賛されているようだが、リテラの記事にあるように従来、閉会式でのバトンパス(旗の受け渡し)はメジャーなアスリートが登場してきた。北京→ロンドンではベッカムが受け継ぎ、ロンドン→リオではペレが受け継いだ。ところが、リオ→東京では安倍首相が中途半端にスーパーマリオに変装して登場した。国内のネット記事を見ると、まさに内向きにもアベのパフォーマンスを絶賛するものばかりだが、まず、オバマメルケルプーチンとは違って、日本の首相が誰なのかなんてほとんど知られていない。だから、わざわざ安倍首相が映像に出てくるときだけ"SHINZO ABE" "PRIME MINISTER"とテロップを付けざるを得ないのだ。スポーツの世界に日本がどのように関わるかよりも、日本国内で安倍晋三の評判が高まることを意識してのパフォーマンスであったと言わざるを得ない。
 ちなみに、NHKは8月21日「おはよう日本」で東京オリンピックの効用として次の5つを挙げている。
1.国威発揚
2.国際的存在感
3.経済効果
4.都市開発
5.スポーツ文化の定着
【平和の祭典じゃ・・】NHKおはよう日本が解説したオリンピックの5つのメリット。1番目は「国威発揚」2番目は「国際的存在感」(写真あり)
 5つも挙げながらスポーツに関することは最後に一つだけ。オリンピック憲章に反する国威発揚を一番に挙げるとかビックリ仰天である。東京オリンピックは、ナチスドイツが率いた1936年のベルリンオリンピックの再現となる悪寒しかない。

政治的パフォーマンスをするアスリート達

祖国の民主主義のために命をかけて訴えるエチオピアのマラソン銀メダリスト

男子マラソンの銀メダリスト、母国エチオピアに無言の抗議「私は殺されるかもしれない」(画像)

リオ・オリンピックのマラソンで銀メダルをとったフェイサ・リレサ選手。住民を弾圧するエチオピア政府への抗議を表明するために、手を頭上で十字にクロスさせながらゴールした。試合での闘いとともに、祖国の民主主義を守る闘いも行っていたわけだ。

黒人差別反対に賛同したためスポーツ選手生命を絶たれたオーストラリア陸上選手

表彰台での勇気ある行為が原因で、母国で生涯を通して除け者扱いされ続けたオリンピックの銀メダリスト

1968年のメキシコオリンピックで、黒人差別に反対するパフォーマンス(ブラック・パワー・サリュート)を行った黒人選手に賛同して横に立っていた銀メダリストのピーター・ノーマンは、同時期、それが原因で、差別主義的な白豪主義をとっていた祖国オーストラリアでスポーツ選手生命を絶たれることになる。賛同を撤回すれば復帰できる機会があってもそれを拒否した。ノーマンも民主主義のために闘ったアスリートであった。

日本では、アスリートが民主主義のために発言することないのではないか。あるとすれば、当選しそうな政党から議員になるぐらいで、そこでも民主主義のために何かをやっているという印象はまったくない。日本のアスリートはそもそも政治的なことを考えていないのか、考えていても日本の空気のなかでは発言できないのか。どちらだろうか。

アスリート精神

卓球男子、水谷の道具ドーピングとの闘い

補助剤について(水谷隼オフィシャルブログ)

卓球ではラケットとラバーの間に接着剤以外を塗るのはルール違反なのだが、ここに反発力と回転力を高める補助剤を塗る選手が圧倒的だ。水谷はこの道具ドーピング根絶のために国際卓球連盟に訴えたりするなど力を注いできた。抗議の意味で世界大会を半年間ボイコットし続けたこともある。彼の行動力を支えているのは「すべてのプレーヤーと平等な条件でフェアに戦いたい」というアスリートらしい動機である。残念ながら、連盟はあれこれ言い訳をして重い腰を上げないので、リオ・オリンピックでも多くの選手は補助剤を使用していたと思われる。あきらかに不利な道具を使いながら個人戦銅メダル、団体戦銀メダルなのだから、たいしたものである。

女子バドミントンダブルス金メダルの松友にとってのライバル

金のバド松友が持つ勝敗「超越した優しさ」にすごみ

これまでライバルたちと対戦することで自分たちは鍛えられた。彼女らとバドミントンをすることが心から「楽しみ」だったのだろう。自分たちが勝つ度にオリンピックを最後に引退を決めている選手たちとは二度と戦えなくなるという寂しさが去来する。自分たちの勝ち負けよりも、自分や他者のこれまでの成長をこそ考えることのできる選手。バドミントンが好きだからこその台詞ではないだろうか。これもアスリートの鑑の一人だろう。


日本だから、これらが日本のニュースになるのだが、日本以外にも今回のオリンピックでこういうすごい選手が何人かいたのではないか。そういうことをもっと知りたいと思ったリオ・オリンピックであった。