ニースの無差別大量殺人とテロ防止と教育と

ニースのトラックと銃撃のテロ。犯行動機は分かっていないが、チュニジア系男性で、窃盗、家庭内暴力、武器所持等の前科という情報が伝わってくる。仮に、組織の指示をうけていない単独犯だとすると、どういう人間がこういう行為に走るか、よく考えてみる必要がある。テロをなくすためには、緊急の治安対策などではまったくもって不十分で、幼少時からの教育・福祉、雇用対策も含む長期的な取り組みが必要だ。

日本でも秋葉原で通行人にトラックで突入し、その後ナイフで斬りつける無差別殺人があったのを思い出した人も多いだろう。この事件はあれこれ分析されているが、競争と管理の教育、格差と貧困、不安定な雇用状況、共同関係の消失と孤立化など、さまざまな原因が論じられている。この分析が完璧だとは思わないが、すくなくともこれらの要因が犯人を自暴自棄にさせた面は拭えない。

こうした状況にある人が、世の中に不満を持ち、テロ組織の影響を直接、間接に受けて、過激な行動に走る危険性はおおいにあると言えよう。皮肉な話だが、日本が救われているのは、日本人の語学力の弱さかもしれない。テロ組織が唆す思想やテロの方法にアクセスする確率が下がるから。

つまり、日本でもニースの事件のような無差別殺人の犯罪予備軍は日々生み出されている。いや、その条件は、教育や雇用や福祉の状況を見ると、むしろますます強まっているとさえ言えるだろう。

無差別殺人は許しがたい行為ではあるが、犯人を一方的に非難する人がでてくると、私は「暴走族が社会秩序を乱すと言って怒る人」を連想する。しかし、すこし考えればわかることだが、社会秩序から何の恩恵も受けていない(と思っている)暴走族メンバーにとって、社会秩序を破壊することに躊躇があると考えるほうがおかしいのではないか。そう考えると、テロや無差別殺人を防ぐためには、すべての人が社会から恩恵をうけているという感覚を持てること必要なのではないか。当然、それに先だって、その事実と経験が必要なのは言うまでもない。

こういうことを考えるたびに思い出すのは能重真作『ブリキの勲章』。激しい「非行」に走る中学生に対し、教師が学級のなかに関係と居場所をつくる。「失うもの」がなかった「非行」少年が「失うもの」を持てたとき、初めて「非行」から卒業したのであった。テロ防止にとってもおおいに教訓になる。