教育勅語を批判する(1)―教育勅語のどこが問題か

稲田防衛大臣が、社民党福島瑞穂氏の質問に答えて

教育勅語の核である、例えば道徳、それから日本が道義国家を目指すべきであるという、その核について、私は変えておりません」

と発言した。

教育勅語は現代人には読みづらい漢字カナ交じりの文語で書かれているので、その一部だけ取り出して、「やさしい」日本語に訳されて、あたかもとても価値のあるものであるかのような宣伝が行われている。

原文と読み方と意味については、たとえば次のサイトなどを参照するとよいかもしれない。

http://chusan.info/kobore8/4132chokugo.htm

あるいは、わかりやすいのだと、高橋源一郎の訳かな。

https://togetter.com/li/1090802


1.「教育勅語には良いことが書いてある」?

さて、教育勅語を現代に復活させようとする人たちが一番よく口にするだろう言葉が「教育勅語には現代にも通じる良いことが書かれている」というところである。この場合、復活論者は教育勅語の真ん中あたりに列挙されている以下の徳目だけ取り上げる。

「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ紱ヲ成就シ進テ公﨟ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ」

それぞれの徳目は

父母ニ孝ニ(父母に孝行し)
兄弟ニ友ニ(兄弟仲良くし)
夫婦相和シ(夫婦は仲むつまじく)
朋友相信シ(友だちとはお互いに信じ合い)
恭倹己レヲ持シ(行動は慎み深く)
博愛衆ニ及ホシ(他人に博愛の手を差し伸べ)
学ヲ修メ業ヲ習ヒ(学問を修め、仕事を習い)
以テ智能ヲ啓発シ(それによってさらに知能を開き起こし)
徳器ヲ成就シ(徳と才能を磨き上げ)
進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ(進んで公共の利益や世間の務めに尽力し)
常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ(いつも憲法を重んじ、法律に従いなさい)

これだけ読むと良いことのように思う人も少なくないだろう。ちなみに私は、上記の徳目を現代に持ち込むのにはいくつか疑問がある。
(1)虐待された子どもも親孝行しなければならないのか?
(2)「公益」、というのは、諸個人が相互の権利を尊重し、調整するという意味での「公共」とは意味が異なり、国家の利益を第一に考え、そのためなら個人の権利は制限してもかまわないという考えであり、現代の日本国憲法の原則に反するものである。(ちなみに、だからこそ、自民党憲法改正案では、「公共の福祉」を削り、「公益及び公の秩序」と言い換えて、基本的人権を制限しようとしているのだ。)
(3)「憲法を重んじる」というときの憲法とは、主権在君である大日本帝国憲法のことであり、国家権力の暴走を抑止する立憲主義に基づいた現代の日本国憲法とは根本的に異なる。

批判はとりあえずこれぐらいにして、百歩譲って、これらの徳目が「よいこと」だとしてみよう。しかし、これらの徳目は教育勅語がないと教えられないのか。戦後、教育勅語の失効・排除決議がされた、教育勅語なき後の日本の道徳教育では、これらの徳目のどれも教えてはならなかったのか。あるいは教えてこなかったのか。

そんなことがありえないのは、誰の目にも明白だ。ということは、教育勅語復活論者があえて教育勅語を持ち出すのは、ここに書かれていること以外の部分を復活させたいからだ、ということも同じく明白なのだ。


2.教育勅語復活論者があえてスルーしているところ

では、いったい彼らがスルーしている部分に何が書いてあるのか。

皇国史観

まず冒頭の

「朕惟フニ我カ皇皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ紱ヲ樹ツルコト深厚ナリ」

である。

これは、神話をもとにした日本という国の成り立ちを表現している皇国史観そのもので、歴史的には真っ赤なウソである。ウソは道徳教育にはよくない。ちなみに、「日本はどこが素晴らしいか」というときに、保守右翼の政治家たちが戦前も戦後も一貫して主張するのは、クールジャパンとか「ウォシュレットのある日本サイコー」とかではなく、最終的には必ず「万世一系天皇を戴く国」というところなのである。ウソをつかないと誇れない日本って何だろうね。おそらくは、率先してウソを教えることで何かべつのことを企んでるんだろうけど。

また、天皇が日本の道徳を樹立したと書いてあるけど、皆さん、日本史の授業や、古文の授業を読めばわかるように、親子、兄弟で血肉の争いをしてきたこととか、色恋沙汰とか、裏切りとかあれこれやってるよね。つまり、天皇が日本の道徳を樹立したなんてのも真っ赤なウソ。現代の天皇や皇太子夫婦のことだけを念頭に置いていたら見誤る。

あるいは、「天皇は道徳を守ってないじゃないか」というのに反論するとすれば、次の文だろうか。

「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ虗華ニシテ繁育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」

つまり、臣民である国民だけに守らせることで日本の美をつくってきたって解釈も可能ですね。天皇など権力者は道徳を守らなくてもよくて、臣民である国民だけが徳目を守るようにさせてきたってこと。つまり権力者は何をやっても良くて、国民にだけ道徳を守らせて統制することこそが教育の本質だということだろうか? これこそ教育? That's the KYOIKU!

徳目一覧できれいさっぱり無視しているところ

さきに挙げた徳目一覧の前と後の部分は重要である。

徳目一覧の前の部分とは「爾臣民」という3文字である。つまり、「臣民は今から挙げる道徳を守りなさいよ」ということ。やっぱり、さっき言った「天皇は別」ってのは正解なんだろう。そして、「天皇が与えた道徳だから臣民は守れ」という形式が大問題だ。そもそも勅語というのは天皇の言葉を意味するが、要するに、「天皇が守れといったら臣民は守らなければならない」という上下関係で道徳を押しつけていることが問題だろう。道徳は押しつけられて守るものか?

つぎに、先ほどの徳目の後の部分であり、徳目の最後の項目。

「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」

天皇に危機が迫ったら、臣民は命を捧げて天皇制を守りなさいということ。「天皇のために死になさい、お国のために死になさい」というのは、道徳教育ではありえない。命を大切にすることこそが道徳教育。しかし、これこそが復活論者たちが求めていることなのだ。復活論者の意図は、必ずしも、天皇制の維持だけを意味しないだろう。たとえば、現政権の野望を実現するために、自衛隊員は命を惜しまず海外派兵に出かけなさい。日本企業を守るためには、過労死も辞さず働きなさい。こういうことに通じるのではないか。いずれにしても、国民ひとりひとりの生命や人権を無視して、国家を優先するということ。国民はあくまで国家の道具で有り、捨て駒であるということを表明しているのだ。国民はトカゲの尻尾だということ。そういえば、まさに今、国政では、権力者がトカゲの尻尾を切ろうと全力でやってますが、まさにそういうこと。

道義国家とは特定のイデオロギー

ちなみに、稲田が道義国家を目指すのだといったとき、「たしかに、道徳を大切にする国は大事だ」と思った人も多いかもしれない。しかし、道義国家というのは、戦前のファシズムの一角をなす思想であり、道徳を大切にする国なんて意味ではないので誤解しないように。あっ、教育勅語には道義国家って出てこないけどね。