「あいさつ」の教育学

「あいさつ」をテーマにした道徳の授業

先日、教職大学院の道徳教育関連の授業でのこと。
ティーム・ティーチングで一緒に授業をしているもう1人の先生を主たる教員として、「朝のウォーキング時に出会う人とのあいさつ」を内容とした新聞の読者投稿欄の記事をもとに道徳授業プランを受講生たちに作ってもらった。

投稿者の結論は、「はじけるような笑顔」のあいさつが一番気持ちがよいというものだった。

この記事に対して、各グループがそれぞれ独自の授業プランを作るわけだ。そこでは予想通り、多くの受講生が、「笑顔のあいさつ」、「大きな声のあいさつ」、「目と目を合わせるあいさつ」が良いものだという前提で、それを子どもたちにどう教えるのかという流れで授業プランを作っていた。「あいさつに個性があって良い。正解を決めるのは好きではない」という受講生も少数だが一定数いたことは付け加えておきたい。

「あいさつ」していないのは誰か?

ここで少し、多くの学校で見られる朝の風景を描いておきたい。小学校などでは登校してくる子どもたちに、正門の辺りで校長や教頭や何人かの教師が「おはようございます」と声をかけているのをよく目にする。そこでは、子どもが笑顔や大きな声であいさつを返さないと、きちんとできるまでしつこく「おはようございます」と迫っていく教師を見かけることがよくある。ひどい場合には「やり直し」とストレートに言ったりする。

さて、ここであいさつできていないのは誰なのか。単純に考えれば、笑顔の大きな声でのあいさつを返さない小学生だと考えるだろう。しかし、私は、あいさつできていないのは、教師の方ではないかと思うのだ。

どういうことか。それは、教師は形式的には子どもにあいさつしているが、それは、ちょうど英語の音読で「リピート・アフター・ミー」というのと同じではないかということだ。要するに、「おはようございます(と言いなさい)」と子どもたちに迫っているだけなのだ。相手のことを気遣って「おはよう。今日の調子はどうだい?」と訊いているわけではないのだ。

このことは、教師が子どもたちに丁寧語で「おはようございます」と言っているところからも読み取れるだろう。私の常識では、大人から子どもへは「おはよう」、子どもから大人へは「おはようございます」だ。教師が「おはよう」と呼びかけ、子どもが「おはようございます」と応答するのが自然ではないのか。なぜ教師が子どもに「おはようございます」と呼びかけるかといえば、やはりリピート・アフター・ミーなのだ。

あいさつはコミュニケーションの入り口

そもそもあいさつとは何かというのは、さまざまな議論がある。たとえば、あいさつは「私はあなたの敵ではありませんので安心して下さい」という機能を果たしているという主張もある。実際にそういう機能もあるだろうと思う。無視して通過されたら、「こいつは自分のことを嫌っているのか」と思い、その人を敵視することはありそうな話である。このことについては、最後にちょっとだけエピソードを交えて書くことにしたい。

あいさつにはいろいろな機能があるのだが、私は「あいさつはコミュニケーションの入り口の機能を果たす」と考えている。つまり、「おはよう」と声をかけても返事が無かったり、うつむいていたりしたら、「どうした? 元気がないなぁ。なにかイヤなことでもあったか?」とか、「ゆうべ夜更かししてまだ眠たいのか?」などと,次の応答を引き出すものなのだ。

それが「声が小さい。やり直し」などとなったら、せっかくのコミュニケーションがぶち壊しである。ひょっとしたら朝から両親が離婚騒動で一悶着あり、とてもいやな気分で登校してきているかも知れない。そんな子の心情に1ミリメートルも近づかないで、あいさつをやり直させるのだとすれば、それはいったい何のためのあいさつなのだろうかと思う。

笑顔で元気にあいさつすることを強要するようになると、子どもの心の変化もつかめなくなるだろう。極端な例を挙げれれば、子どもが自殺したあとに、教師は「信じられません。いつもあかるく元気にあいさつしてくれていたのに…」などということもなりかねないだろう。

この点で、海外のあいさつは、あいさつの本質をとてもよく突いていると思う。たとえば、
Hello, how are you doing?
と相手の調子を訪ねる。それに対して、相手も、
Fine!/Not bad./So-so. And you?
とかで応答する。無理に笑顔である必要はない。
Wie geht es Ihnen?(ヴィー・ゲート・エス・イーネン) 
と訊かれて、
Schlecht!(シュレヒト=悪い)
と応えたってかまわないわけだ。そこから、話が始まるのだ。

笑い話に、日本から英語圏の国に留学した人が病気になって病院に行ったとき、医者から
How are you?
と訊かれて
I'm fine, thank you.
と応えたというのがある。何で病院に来たの?という話だ。
日本では、英語の授業でもあいさつは形式なんだなぁってことだ。

コミュニケーション能力の育成などというと、あいさつ運動をしたがる学校が多いが、私からすれば、多くの学校でやっているあいさつ教育はディスコミュニケーション教育である。

誰にあいさつするのか

さて、私は中学校3年間を親元を離れて祖父母のもとで田舎暮らしをした。そのときのあいさつの経験は今でも忘れない。自転車で30分ぐらいかかる中学校だったが、中学生は、正門を出たところから、道行く人、田畑で農作業をしている人に出くわすたびに「帰りました(ただいま)」とあいさつしなければならなかった。

今考えて見ると、人口3000人程度の町では、ほとんどの人が知り合いなのだ。だから、こちらが相手を知らなくても、相手はこちらを知ってる。すくなくとも○○さんの家の孫だという認知をしている。だから、あいさつをしなければ、祖父母のところに、「おたくのお孫さんは…」となることだろう。

つまり、あいさつというのは、閉じた共同体で、お互いに共同体のメンバー性を確認するという意味もあるのではないか。最初に述べた「私はあなたの敵ではありません」ということだ。

ところが、都市化が進むと、閉じた共同体などはなくなってしまう。試しに東京の渋谷や名古屋の栄で、出会う人すべてにあいさつしてみればよい。一歩も前に進めなくなるだろう。

最近の学校は地域住民に学校評価を求めたりしているのだが、その回答ではしばしば「この学校の児童はあいさつもできない」が上位ランク入りする。しかし、都市化し、地域のつながりも薄くなったなかで、子どもがよく知らないと思っている相手に対してあいさつをするだろうか。タダでさえ、学校では知らない人が声をかけてきても応答しないように教育しているのではないか。

あいさつしろと言われたり、口をきくなと言われたり,子どもも大変である。都市化し、流動化し、バーチャル化した現代において、あいさつは、選択的なものにならざるを得ないのではないか。それなのに、学校教育では、古色蒼然としたというか、軍隊的なあいさつ教育が続けられる傾向にある。基本的にはあいさつしたいと思える親しい人との間であいさつし、そこで、お互いの状況を確認し合い、励ましたり、励まされたりするというコミュニケーションをとれれば、あいさつの役割は十分に果たせるのではないかと思うのだが…。こういう考え方を受け入れないのが日本の学校なんだろうなぁ…。