体罰で自殺した学校と体罰があっても自殺がない学校に境界線はあるか

自殺が起こらなければよいということではなく、体罰は教育上有効ではないどころか有害だし、教育力の点からしても稚拙であるということは大前提である。

しかし、今回は、自殺防止という観点から見ても、橋下市長の考え方がいかに間違っているかを指摘しておきたい。

まず第一に、大阪の桜宮高校の体育科での生徒募集に関して、橋下市長は、私が決めたのではなく、教育委員会が決めたのだと責任転嫁していることは論外だろう。募集するなら予算執行を停止すると、議会で承認済みの予算の執行まで独断で変更するとの脅しで、教育委員会に圧力をかけたことにはダンマリで、最終的に教育委員会のせいにするとは卑怯としか言いようがない。以前、日の丸・君が代で教員に強制したときの言いぐさとまったく同じ構図だ。事実上自分で決めておいて、形式上、他人に責任をなすりつけられるようにするとか、どれだけ潔くないんだろうと思う。まあ要するに、今回の生徒募集の最終的な判断と責任は橋下市長にあるということだ。

その上で、第二に、橋下市長は「体罰があれば募集停止なら、桜宮高校だけでなく、他の高校でも募集停止すべきではないのか」という批判に対して「桜宮は自殺者を出した。自殺というのは一線を越えている」として、桜宮だけの募集停止を正当化した。

これはまったく論理的におかしいだけではなく、自殺を防ぐ上という目的を設定した場合には、むしろ問題の方が多い。

先日の愛知教育大学のいじめシンポジウムで社会学者の川北稔氏は、いじめ自殺があった後いじめに関するメディアの報道が急増し、文部科学省の調査でもいじめ件数が急増するというデータを示した上で、自殺がないとだれも注目しないことに注意を促していた。いじめ自殺があっても数年経つと、メディアでも調査結果でもいじめは下火となり、またしばらくして次の自殺があったら同じことを繰り返すという。川北氏の提案では、「自殺しなくてもこんな取り組みでいじめがなくなったよ。改善したよ。」と、自殺しなくても解決した事例を継続的・積極的に報道することこそが大切なのではないかということだったと思う。これによって、子どもたちは自殺しなくても解決するかもしれないという希望を持つことができるのではないか。

そうだとすれば、「自殺があった学校には改善のための対応を迫るが、自殺がなかったら問題としない」という橋下市長の姿勢は、子どもたちに「改善するためには自殺するしかない」という誤ったメッセージを送ることになるのではないか。

そもそも、自殺するかどうかは、体罰の重さと直接結びつくわけではない。もっとひどい体罰を受けても耐えている子どもだっているだろうし、桜宮高校よりもっと軽い体罰でも自殺する子どもはいるだろう。

ここで言いたいのは、子どもに、体罰をうけても自殺しない強さが必要だとか、自殺する子は弱い子だ、などということではない。どれぐらいの体罰なら必要で、どのくらいの体罰なら過剰だ、という線引きは事実上できないということだ。だから、橋下市長のように、部活での体罰は否定しながら生徒指導上のある程度の体罰は容認するというような主張は、自殺防止というリスクマネジメントの点では全くでたらめだということだ。