自民党の教員養成政策がダメすぎる件

毎日新聞がいくつか自民党の教員養成政策について報じている。これがあまりにひどいので、久しぶりだが、ブログに整理しておきたい。

まず記事をいくつか引用しておこう。

 教員希望者に「准免許」を与えて学校に配属、「数年の試用期間」を経た上で「本免許」を与える「インターン制度」を導入し、指導力向上を目指す。本免許を与えた教育委員会が任免権を持ち、責任を負う。現在の制度を抜本改革する内容で、党の教育再生実行本部や政府の教育再生実行会議の議論を経て制度設計に入る。指導力向上を目指して民主党政権時代に打ち出された「教員の修士レベル化」は事実上、凍結される見通しとなった。
 現在の教員免許制度では、大学などで教員養成課程の単位を満たせば、卒業時に免許が与えられ、採用試験に合格した自治体の学校で勤務する。1年間は試用期間になっている。中央教育審議会は昨年8月、指導力不足解消のため、教員を「大学院の修士レベルを修了する」とする内容を答申していた。これに対し、自民党内では「大学院で勉強すれば指導力が向上するものではない」と異論が出ていた。
(以下略)

教員制度改革:「試用」3〜5年 新卒は准免許 自民検討

 自民党が検討する「教員インターン制度」は「教員の質」について、校長・教育委員会が責任を持つ点が特徴だ。政府の教育再生実行会議の議論同様、学校教育の責任の所在を明確にする流れの一環といえる。
 指導力不足教員が出る一因として、学校内の縦の連携の弱体化がある。かつては、ベテランが若手の先生役になり、授業法や問題への対処法を伝承していた。だが今は、事務作業や保護者対応などが膨大になり、ベテランも余裕がなく自分のことだけで精いっぱいなのが現状だ。今回の自民案は、校長・教委に教員育成の義務と責任を持たせるため、新人が放置されることはなくなるとみられる。

教員制度改革:「教員の質」担保 校長・教委に責任

問題がありすぎて、どこから手をつけて良いのか分からないほどなので(笑)、思いつくままいくつか問題点を挙げてみたい。

1.現場や教育委員会に教員養成の力が十分にあるのか

 そもそも「大学院で勉強すれば指導力が向上するものではない」というのは、何を根拠に言っているのだろうか。自民党は、このことに関してどのような検証をしたのだろうか。単に思いつきで言っているに過ぎないのではないか。いわゆる既設の教育学研究科といわれる大学院を念頭に置いて議論したとしても、ほとんど根拠のない言いがかりだしか思えないが、最近の実践に傾斜した教職大学院に関して言えば、かなり鍛えて送り出していると自負している。少なくとも、本学の教職大学院に関して言えば、教員側の実感としても、採用していただいている教育委員会の側の実感としても、教職大学院修了生の評価は高いのではないか。だからこそ、教員採用試験の一次試験免除などをしていただいているし、教員採用試験の合格率もかなり高い。(昨今、教員採用がとても多いので、優秀な学生はあまり大学院に進学しないことを念頭に置いて考えてみれば、合格率が高いことの意味は大きいでしょう。)

 また、学校現場や教育委員会によって教員研修が十分に可能なのだとすれば、教員はずっとOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)しているはずだから、立派な教師になり、学校でいじめ、体罰不登校などのさまざまな問題は生じていないはずである。ところが、現実にそれらは起こっているのだ。このことを見ただけでも、現場や教育委員会による研修では不十分だということは一目瞭然である。教育現場の内側だからこそ見える問題があるのは当然であるが、内側にいるからこそ慣れきってしまって見えなくなる問題もあるということを忘れてはならない。この点で、教育を科学の目で捉えなおし、学校にある慣習を相対化することができる場としての大学院は重要かつなくてはならない場なのだ。

2.ベテランでも苦労している

 学校の諸問題の原因が、あたかも、学校内の縦の連携の弱体化によってベテランから若手への伝承が困難となっていることにあるように描いているが本当か。学習指導要領も含めて、猫の目のようにコロコロ変わる教育政策によって、現場の教員は常に学び直さなければならなくなっているため、年齢的にはベテランであっても、10年ごとにリセットされて新参者・初学者にされてしまうということを自民党は理解しているのだろうか。たとえば、生活科の導入で、現場で経験と勘で指導をしてきた年配教員が、大学で学問として生活科について学んできた新人に、ためになることを本当に教えられるのかは疑わしい。だから、単純にベテランから新人に伝承されにくくなったことが指導力不足の原因だとはいえないのではないか。
 これと関連するが、教育の特定の方法を提案し、押しつけまがいのことが行われていることも教師力の向上を妨げている。この先頭に文部科学省教育委員会が立っていることも珍しくない。たとえば、指導要領で「言語活動」というキーワードが導入されると、どの教科でも、どの単元でも「とにかく言語活動を取り入れなければ良い授業ではない」といわんばかりに、授業のあり方が規制される。子どもの認識や思考の発達にとって、この単元でそれが本当に好ましいのか、ということを考える余地すら与えないようなことが起こっている。美術の授業なのに、創作・制作もせず、また創作・制作の向上に繋がりそうもない「話し合い」が延々と行われるというような悲喜劇などは良い例だ。ベテランも新人も、このような波にのまれて、自分で良い授業とは何かを追求する余地を与えられていないことがしばしばあるのだ。こんな指導をしていたら、ますます子どもたちは離れて行ってしまうおそれもある。一見指導力の問題にみえることも、実は、教育行政が提示する教育内容・教育方法の問題があることは珍しいことではない。
 また、中堅といわれる現職教員も教職大学院に入ってくるが、エリートであり、教師としてのそれなりの腕をもっていると評価できる彼・彼女らであっても、教職大学院で学ぶことは少なからずあるのではないか。すくなくとも現職教員の実習指導で現場に入っている立場から見ても、ベテラン教員・ミドルリーダーと言われる教員にも、まだまだ学ぶべきことはたくさんあるというのが実感である。指導が立ち行かなくなって定年前にやめてしまう教師が続出している問題を自民党はどう考えているのだろうか。

3.教育には時間と金と人手が必要だということを忘れている

 上記の最後の点とかかわって、自民党は金は出さずに乾いた雑巾をさらに搾ることしか考えていないように思えて仕方ない。「ベテランからの伝承がうまくいかないから教育委員会と校長が責任を持て」と言うが、そもそも「事務作業や保護者対応などが膨大に」なっている現状で、誰がいつ若手の指導をするのだろうか。若手はいつ指導してもらえる時間をとれるのだろうか。教育はタダではない。教育には人と金と時間というコストがかかるのだ。この点からみて、自民党に、校長や教育委員会が指導できるように、大幅な人員配置とそのための予算措置をするつもりはあるのだろうか。たとえば、若手教員1人につき、校長に助手1人をつけるとか、新人教育担当として新人教員10人に1人ぐらいの割合で、教育担当職員を教育委員会に配置するつもりがあるのだろうか。とうていそんなことを考えているとは思えない。
 ごく一部、担任を持たない教諭を増やすとは書いてある。しかし、教科担任でもない小学校で担任を持たない教諭を増やして、どうやって研修するつもりだろうか。また、日本の場合、授業もあるが、若手教員がいちばん戸惑うのは学級づくりである。ここがうまくいかなくて、子どもや保護者とトラブルになることが多い。さらに、授業は、日常の学級づくりの土台の上で成立している面も多々ある。担任を持たせずに、何を育てるつもりだろうか。

4.校長や教育委員会に媚びを売れば生き残れる仕組みとなっている

 さらに問題なのは、インターン後に生き残るためには、教育委員会や校長の覚えがめでたくなければならないことだ。そうなると、何がおこるか想像するのは容易だろう。校長をヨイショし、場合によっては、盆暮れに付け届けをし…。目の前の子どものためを思って、ときには校長に意見したりすることは、自らのクビを危うくすることになるので、控えるようになる。そうなれば、間違っていても校長の個人的な「教育理論」や「教育方法」が絶対化され、教育理論や教育方法が切磋琢磨の中で向上するということがなくなってしまい、かえって指導力は低下するだろう。

5.中央教育審議会の答申を軽視しすぎている

 大学の英語教育に関するTOEFLの導入に関する議論でもそうだが、ほとんど根拠も示さない素人の思いつきのようなことを次々と政策として提案してくるのには、唖然とせざるを得ない。(TOEFLに関する自民党教育再生実行本部の遠藤氏の根拠のなさについては→http://d.hatena.ne.jp/gorotaku/20130404/1365066300
 少なくとも、それなりの専門家を集めて、長期にわたって議論して結論を出した中央教育審議会の答申をなかったことにして、勝手に方向転換するのは、民主主義的手続き論からして許されるべきことではない。確かに、中央教育審議会は中立ではないし、教育学の専門家は少なく、本当の専門家集団とも言えないが、少なくとも政治からは独立していなければならない教育政策の正当性を担保するために、中央教育審議会を設置してきたはずである。政権が変わったという理由で、チャラにできるのだとすれば、中央教育審議会が教育という見地から答申を行ってきたという形式的な中立性すら、否定することになってしまう。そのことは、そのまま過去に政権をとっていた自民党に対しても、今後の自民党に対しても跳ね返ってくる問題だろう。

6.人間の社会的自立を根本から破壊する

 教員の身分を著しく不安定な状態に置くということも大問題である。このことを一般の企業に置き換えて考えてみてもらいたい。企業に正社員として採用されても、数年間はあくまでインターンであって数年間あるいは数年後にクビにされても仕方ないという制度を導入するのだとしたら、人々が職を得て働くことで生きていくという人間としての基本的な条件が破壊されることになるだろう。数年間頑張ったあとでダメだしされて、また別の職種にインターンで就職し、またダメだったということになったら、そこで得た知識や技能はその都度リセットされることになってしまう。このことは、社会的に見ても、壮大なる無駄を生み出してしまう。もちろん、「人間は掃いて捨てるほどいるから、使い捨てにしても構わない」というなら話は別だが、そうだとしても、捨てた人の代わりにまた新たな人を研修しなければならないわけで、壮大なる無駄であることに変わりはない。そもそも、ユネスコの『教員の地位に関する勧告』から見てもどうよ? ってところである。

7.採用し、育てる側の構えが低下する

 また、とりあえず採用して使ってみてダメだったら、クビにすればよいというようになると、最初の教員採用のときに慎重に見極めなくなるという弊害も生じよう。この人とずっといっしょに教師集団をつくっていくのだと思えばこそ、採用するときに慎重になるのではないか。また、万一、採用するときに見る目がなくて、あまり優秀でない人を採用してしまったとしても、それは採用してしまった責任があるのだから、責任を持って育てるというのが、人としての責任のとりかただろう。たとえそれほど優秀でなくても、責任をもって育てるという覚悟が必要なのだ。そのような覚悟なしに、安易に採用し、育てることもせず、勝手にやらせておいて、優秀な者、自分で勝手に育ったものだけ残して、あとはサヨウナラとなるような仕組みは、退廃する。また、安易に採用され、育たない教員に、短期間でも教えられる子どものことも考慮しなければならないだろう。このような仕組みの一番の被害者は、教育の最大の受益者である子どもたちである。

8.数年間、半人前の教員に教えられる子どもたち?

 そもそも数年間の見習い教員という位置づけをつくることになると、子どもたちの中に、一人前の教員に教えられる子どもと、半人前の教師に教えられる子どもという問題を作り出してしまう。このことは、子どもや保護者から見たらどう見えるのだろう。「私の子どもの担任は一人前の教員にしてください」「私の子どもの授業は一人前の教員に担当させてください」という保護者の要求があった場合に、学校はどう対応するつもりなのだうか。