道徳の教科化は道徳教育の劣化を招く

自民党が次々と、教育の条理に反することをやってくる。条理に反するだけでなく、科学に反するから、現場が混乱するだけで、子どもたちの成長・発達にとってマイナスなことが多いのだが、いずれにしても、その基本骨格は、ほぼ、「教育の中央集権」と、「教育の政治利用」の2点に集約できるのではないかと思う。

今日は、「道徳の教科化」の問題について指摘しておきたい。あらかじめ内容を予告しておくと、第一に、「何が道徳的に正しいのか」という道徳の内容を誰が決めるべきなのかという問題であり、国家が決めることがいかに危険であるかという問題である。第二に、道徳を教科にすることが、いかに非道徳的な人間を育てることになるか、という問題である。

国家が道徳の教師になる資格があるか。

国家が道徳内容を決定することは危険きわまりない

政府がしばしばウソをついたり(先の民主党がほとんどの主要な公約を反故にしたこととか、自民党が選挙の時にはTPP断固反対といいながら、政権をとったら交渉参加表明するとか)、憲法違反を行ったり(現在の憲法では国務大臣憲法を尊重し擁護する義務があるが、平気で憲法改正を口走ったりしている)しているから、道徳を語る資格がないということはあるにしても、そのような卑小な問題ではない。

むしろ、先のアジア・太平洋戦争の時に、国家が国定教科書を通じて、どのような道徳を国民に押しつけてきたかという問題と関わっている。国家は、道徳の内容決定において間違いを犯しうるだけではなく、意図的に間違えるものなのである。たとえば、「お国=天皇のために死ぬことは善いことである」とか「目上の人、政府に逆らうことは悪いことである」というような道徳を提示し、そう思い込むように統制したり、マインドコントロールしたりすることで、政府は国民に一方的に負担や苦難を強いる政策をとることが、より簡単にできるようになる。負担や苦難への不満に対して「愛国心が足りない(非国民=反日だ)」とか」「我慢という道徳が育っていない」とかいうことで、悪いのが政府ではなく、国民、子どもたちの側である、と強弁できてしまうからである。

このあたりに関しては、日本の明治以降の道徳教育史を勉強することがとても役立つのだが、これまで、自由民権運動などの民主主義を発展させる運動が起こってくると、道徳教育を強化し、道徳教育を通じて民主主義を抑圧してきた。これは単に戦前の問題だといって片付けられる問題ではない。国定道徳と民主主義とは、本質的に相容れないものなのであるということを理解しなければならない。

ちなみに、道徳の歴史を知るなら、次の本を参照のこと。

学校教育と愛国心―戦前・戦後の「愛国心」教育の軌跡

学校教育と愛国心―戦前・戦後の「愛国心」教育の軌跡

道徳の内容は市民が相互に討議する中で決まってくるものである

もちろん、道徳教育を行ってはならないと言っているわけではない。道徳教育は教育の中心的な課題でさえある。問題なのは、その内容の決定のされ方である。
たとえば、「目上の人は尊敬しなければならない」という徳目があったとする。しかし、そもそも目上とは何かということも定かではないので、何をもって目上とするのかということから議論しなければならなくなる。辞書的には「階級・地位や年齢が自分より上であること」ということであるが、はたして階級が上だから尊敬しなければならないのか、地位が上なら偉いのか、歳が上なら偉いのか、ということは、子どもたちが日常暮らしていれば、当然突き当たる問題である。そのときに、目上だから敬えではなく、目上とか目下とかではなく、他者にどのように接するべきなのか、どのような人こそが尊敬されるべきなのか、ということが議論されてしかるべきである。このように、日常の実感や経験をつきあわせながら、子どもたち(市民)が、よりよく生きていくために作り出したものこそ、道徳の内容であるべきだということだ。この点で、道徳の内容は市民および子どもたちによる討議の結果として確定されていくものだということだ。

特定の考え方を押しつける道徳の滑稽さについては、次の本がとても参考になる。

内容が正しくても教科としては教えられない

テストで道徳性は計れない

道徳を教科にするとはどういうことかをよく考えてみる必要がある。それは、学習指導要領で教えるべき内容を決め、教科書をつくり(当然教科書検定が行われる)、教科書の内容を覚えたかどうかをテストで計測し、成績をつけるということだ。

ここでまず第一に、注意しなければならないことは、テストができたからといって道徳的に成長しているわけではないということだ。教育学では、学習指導の結果は、教科内容を教えてできるようになったかどうかをテストで計測することはできるが、生活指導・道徳教育では、人間が本当にそう思っているかや、現実のなかでそのように行動することができるかということが問題となるので、テストでは計測できないというのが常識だ。

道徳の教科化は裏・表のある人間を育てる

テストでは「お年寄り・妊婦・障害者等に席をゆずる」と解答する子どもが、実際に席を譲るわけではない。逆に、いつもすすんで席を譲っているのに、何度が「ワシを年寄り扱いするな」と怒られた子が、テストで悩んで、「場合による」などと解答することもある。決して席を譲りもしない子が、テストでは「お年寄り等に席をゆずる」と解答して優秀な成績をとり、教師から「あなたは道徳的に優れた人です」などと褒められて鼻を高くし、悩んだ子が「あなたは道徳的に問題があります」などと評価されるとすれば、こんな非道徳的なことはないだろう。
道徳の教科化は、裏表のある人間を育てるだけであって、決して本当に道徳的な人間を育てるわけではない。

人類的課題について考え、哲学する時間に

では、道徳の時間に何をするのだろうか。基本的には、これからの道徳をどうつくっていくのかを考える時間にするのがよいと思う。一方で、いじめや体罰・暴力、差別などの身近な問題がある。この問題にどうやって向き合っていくのかということを考えてもよいだろう。大切なのは、「いじめはいけない」等の単純な結論を教え込むことではない。なぜいじめが起きるのか、どういうときにいじめたくなるのか等も考えつつ、その原因の除去も含めていじめを理解し乗り越えていく力をつけることではないか。他方で、地球温暖化、食糧問題、人権問題、戦争・紛争と平和の問題などがある。グローバル化していく社会で、子どもたちは、今後、多くの問題に直面していくことになるだろう。国家と民主主義の問題も重要な課題である。これらの問題をどのように解決していくべきなのか、そのときの考え方の基盤に、どのような原理を据えるべきなのかを、みんなで探っていく時間にすれば良いのではないか。


道徳の教科化のねらいは何か、どのように対峙すべきか

道徳を教科化することの無意味さと弊害は、教育学のなかでは過去に何度も議論されてきており、もはや議論する必要すらないことだと考えれている、と言っても過言ではない。そんな政策を恥ずかしげもなく出してくるのを無知だと批判することに意味はない。なぜなら、政策を出してきている側は、そんなことは承知の上でやっているだろうからだ。

では、なぜ現在、与党・政府が、これだけ学問的には批判のある「道徳の教科化」をやってくるのか。それは、国家が道徳を独占し、テストによる評価によって脅しつつ、子どもたちに特定の考え方をすり込み、国家が示す道徳内容以外の道徳について考えさせないようにするためだろう。戦前、そうすることによって、すすんで兵隊に志願し、政府を批判する人たちを「非国民」と蔑視する人間が育っていったことを考えると、バカバカしいと笑って済ませるわけにはいかないだろう。

我が子を、国家や多国籍企業のための捨て石として育てた/育てるつもりはない、と思う人たちは、道徳の教科化に強く反対していかないと、大変なことになるのではないかと思う。