立憲主義擁護のためにたたかう若者たちへの連帯メッセージ

安倍首相との相性

私が身銭を切って上京し、時には宿泊して、日比谷野外音楽堂や国会議事堂前の集会やデモに何度も足を運ぶのは、9年ぶりである。(原発再稼働反対のときも、秘密保護法のときも1〜2回は出かけたが、これほど上京するのはやはり9年ぶりなのだ。)

9年前というのは、もちろん教育基本法改悪に対する反対運動のときである。(当時は、高橋哲哉氏や小森陽一氏など教育学以外の人たちも先頭に立ち、それなりの運動にはなったが、デモは5000人程度であった)。

このときの総理大臣もやはり安倍晋三だった。よほど安倍晋三は相性が悪いらしい。相性が悪いのは「私と」ではなく「民主主義と」である。(それにしても、新幹線で上京するたびに安倍首相のお友達であるJR東海の葛西会長の懐に金がいくと思うと腹立たしい限りである。)

すでに始まっていた立憲主義破壊の前哨戦

さて、最近の運動界隈の人びとにとっては福島以降が主たる戦時のようだが、我々教育学者や法律家にとっては、2003年に始まる教育基本法改悪反対の運動は、とても重要な闘いだった。教育学関連の諸学会や法律家を含む団体・個人から改悪反対声明がだされた。(たとえば教育基本法改正情報センター)。

専門外の方はご存じないかもしれないが、教育基本法日本国憲法は日本が立憲主義・民主主義国家として飛び立つための両翼だった。このことを理解してもらうのには、前文がある法律が、ともに1947年に施行された教育基本法憲法だけであると指摘するとわかりやすいかもしれない。

立憲主義的ということで内容面に注目すれば、旧教育基本法の第十条を見ればよいだろう。

第十条(教育行政) 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

要するに、国や地方自治体などの行政は、金は出さねばならないが、口をだしてはならないという法律だったのだ。

しかし何よりも直接的なかかわりを示すのは前文である。

われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

ここで言っているのは、日本国憲法の掲げる理想を本当に実現するためには「教育の力にまつ」ということだ。だから日本国憲法の確定だけでは画竜点睛を欠くのであって、教育によるその実現が必要だということなのだ。

逆に言えば、教育を通して自分たちが望む臣民を育てれれば、おのずと憲法の理想の実現とはほど遠い社会がつくれるということもである。

改正に憲法のような高いハードルもないため、彼らは多くの教育学者の反対にもかかわらず、思想良心の自由等に関して、憲法に違反する疑いのある法律を強行採決してしまった。

予想されたように、改悪教育基本法は教育界にさまざまな害悪を及ぼしつつある。

その成果としてあらわれている一つの問題が、いまニュースなどでも話題になっている教科書採択問題である。教科書採択の際に、改悪教育基本法第2条の五

伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと

が持ち出され、「自由社育鵬社の教科書が教育基本法に一番適合的である」などと言う理由でその採択がごり押しされてきたのだ。(ちなみに、歴史修正主義の教科書問題は、教育基本法改悪よりも時代がさかのぼる。やはりこれに安倍晋三氏が関わっていた。彼は1997年に発足した「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」の事務局長をつとめていたのだ。これについては第二次世界大戦終結70年 第2部 安倍首相と逆流の系譜を参照)。

そして、改悪された教育基本法に基づきながら、道徳を教科化し、国民に法や規範を守ること、愛国心を教え、生命の尊重を教え、しかしまた、なぜそうなるのかという子細の説明は省略するが、個人は死んでも日本民族という大きな生命のなかに生きれば良いというような死生観を忍び込ませつつあるのだ。私は生活指導を研究しているが、この分野には以前から管理主義に抗して「心に制服を着るな」というスローガンがあった。しかし、いま、権力者たちは、子どもたちの心に制服どころではなく軍服を着せようとしているのではないか。

それにしても、憲法を守らない内閣が「法やルールを守れ」と言ったり、イラク戦争イスラエルによるガザ空爆の中で多くの市民(老人・女性・子ども)が殺され、イラクに派遣された自衛隊員が多数自殺していることに心を痛めない内閣が「生命の尊重」を言ったりするのは悪い冗談かと思うが、自民党改憲案を示して「憲法を守るのは国民である」といっているように、立憲主義とは真逆のことを堂々と謳っているところをみると、彼らはまじめに権力者は治外法権だと考えているに違いない。

立憲主義・民主主義国家日本墜落の手前で

教育基本法が改悪されたとき、運動していた私たちはとても残念ではあったが、まだ憲法があると思っていた。しかし、まさか改憲もせずに、事実上憲法をいくらでも曲解改憲し、「総理大臣である私が言うのだから正しい」などという総理が現れようとは思いもよらなかった。教育基本法を失い片肺飛行でかろうじて生きながらえている立憲主義・民主主義国家日本が、墜落の危機を迎えようとしている。

しかし、権力者の思い通りにはならない。墜落したかに見えたまさにそのとき、再び立憲主義・民主主義日本は上昇を始めたのではないか。その証拠に、教育基本法改悪から9年を経た現在、本当に命を守りたい、人々の小さな幸せを守りたいと思う学生たちが立ち上がり、自分達の声を堂々と表明しているではないか。そして大学生中心の運動に触発された高校生たちも行動を起こし、声を上げはじめているではないか。

学びながら闘っている学生たちは言う。「私たちには理想の未来、つくりたい未来がある」と。これはまさにユネスコの学習権宣言(1985)の示す学習権を行使していると言えよう。

学習権とは、
  読み書きの権利であり、
  問い続け、深く考える権利であり、
  想像し、創造する権利であり、
  自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、
  あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
  個人的・集団的力量を発達させる権利である。
 成人教育パリ会議は、この権利の重要性を再確認する。(抜粋)
http://homepage1.nifty.com/scientist/sengen.html

日本人のモラルは、学校の教科としての道徳だけではなく、家庭でも、ストリートでも、広場でも、育っていく。このような若者の学習と運動から民主主義的な知性とモラルが鍛えられていくことに期待したい。

そして、現在50歳である私が日本人の男性平均寿命まで生きていたとしたら、そのときに、ちょうど今の私と同じぐらいの歳になった現在の学生たちの口から「日本は100年間戦争をしない平和国家としてやってきました」という言葉を聞きたいものである。そしてその子どもたちがさらに120年、130年…と引き継いでいくことを願いたいものである。