憲法改正手続き問題を考える

自民党や維新の会が憲法96条の「改正」とそれとの関連で憲法9条の「改正」に具体的に言及し、来る参議院選挙の結果次第では、自民と維新など改憲勢力を合わせると、憲法96条の規定である衆参両議院の3分の2を占める現実的可能性も出てきた中で、憲法改正手続きについての議論が活性化してきた。

「改正」したい側は、やたらと日本の憲法の改正手続きが「硬性」すぎる(ハードルが高すぎる)ことを強調しているが、先進国は多かれ少なかれ日本並みに改正手続きのハードルが高いという反論も行われている。このあたりについては、ネットでざっとみた限りでは、次のページがわかりやすいと思うが、私が見るところでは、日本の憲法がとりたてて変えにくいとは読めない。

世界の憲法改正手続比較(All About)


ただし、他国と比較するのは、他国が憲法をどのようなものと捉えているのかを理解する手がかりはなるが、手続きの形式のみを見て、外国がそうだから、日本もそうすべきだとか、外国は関係なく、日本独自にやれば良いと考えるのは、すこし短絡的に過ぎると思う。


私はそうは思わないが、仮に日本の憲法の改正手続きが世界で一番ハードルの高いものであったとしても、それが憲法の存在意義に添うものなら、それはそれでちっとも構わないと思うわけである。

では、憲法の存在意義とは何か。最近私の瞥見するところでは、「立憲主義は国家権力の手を縛るものであるから、簡単に変えられないようにしてある」という議論が主流であるようだ。もちろん、前回の安倍政権でも今回の安倍政権でも、総理大臣が憲法改正の先頭に立つところを見てしまうと、立憲主義を持ち出したくなるのは、わからないではない。そもそも、現行憲法の99条では、

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ|

とされているわけだから、総理大臣が改憲を目指すなどと口走れば、それは憲法違反である。(そして、それは、暴力団が暴対法の改正を目指すと言っているのと同じ構図でもある。)30年前の日本なら、まだ今よりもう少し民主主義が浸透していたので、内閣総辞職をしなければならないような大問題に発展していたはずだ。現在そうならないのは、マスコミが権力批判の役割を放棄し、むしろ権力者の片棒を担いでいるからである。問題の所在をマスコミが示さないので、国民がことの重大性に気づきにくくなっているに過ぎない。

それはさておき、立憲主義とは、憲法によって権力者の手を縛るものだから、改正手続きのハードルが高いというのは、いささか論拠としては弱いように思われる。国会議員も憲法尊重・擁護義務を負わされているが、「憲法が国民によって政府の手を縛るもの」だとすれば、国民の代表者である国会議員には、憲法改正を提案する権限はあるはずだからだ。

しかし、国会議員に憲法を変える権限があるとしても、私は憲法はできるだけ変えにくい方が良いと思っている。それはなぜか。

基本的人権は、そのハードルが過半数であろうが、3分の2であろうが、4分の3であろうが、投票によって与えたり奪ったりできる性質のものではないからである。もし投票で決められるならば、とても簡単にマイノリティを排除することが出来てしまうのではないか。マジョリティの声で、誰かの人権が奪われないようにするための歯止めとして作られているのが憲法ではないかと思うわけである。

仮に、投票で人権が奪えることになれば、ナチズムで起こったようなことが、合法的にできてしまうことになる。人類が、「多大な」という言葉では言い表せないほど多くの犠牲を払って、そのような愚行を繰り返さないために作り出した仕掛け、それが憲法なのではないか。人類が決してそれ以下に堕ちてはならない基準線、人間が人間以下にならない最低限のラインをまもるために憲法があるのではないか。

そこまで大げさに言うと、「まさか日本が全体主義に戻ることはないだろう」と思われるかもしれないが、マイノリティを生活保護世帯だったり、若者だったり、老人だったり、ニートだったりに置き換えて考えれば、容易に起こりうる問題である。「生活保護世帯は甘えているので援助しなくてよい」、「近頃の若者はたるんでいるから徴兵制で鍛え直した方が良い」等々。投票で決めるとなると、簡単に基本的人権を奪えそうなテーマは山ほどある。主観的に過度に個人化された再帰的近代を生きる現代人は、そのような過ちを犯してしまうリスクにつにねさらされていると言って良い。

おそらく、法哲学者、法社会学者なら、このような観点から、議論をすすめるのではないか、と想像しながら素人なりに書いてみた。


ちなみに、日本の憲法が一度も変えられなかったことを批判する人がいるが、それは彼らの意に反して、「変えなければならない」と大多数の国民や議員が思うような、問題のある条文が存在しない、かなりよくできた憲法であることの証明となっているのではないだろうか。