ポスト・フクシマの教育学(7)―ため込む学びからの脱却を

あ〜あ。またアップロードするところでネットが上手くつながらず、書いた記事全部が消えちまった。ショック。ということで渾身の大作だったのですが、端折って書きます。


福島の住民の動きを見ていて、これは教育の問題だと思ったことがある。
福島の人々の被曝問題に対する対応が二極に分かれているのではないだろうか。一方の極には、素人にも拘わらず、我が身と我が子を守るためにネットで放射能やその影響に関する情報を集め、ネットの動画で小出裕章氏らのやや専門的な原子力に関するインタビューや講演を聴き、避難受け入れ先を探す人々の存在をさぐり、避難を検討する人々がいる。他方の極には、「国や福島県が20mSvなら安全と言っている」、「放射線の数値も下がってきている」として、子どもたちを公園で遊ばせている人たちがいる。現実問題に鋭敏で、問題があれば情報を集め、学び、対応を考える人たちと、現実問題に鈍感で、与えられた情報で満足する人である。その間はグラデーションとなっていて、多様な人がいることは承知のうえで、あえて二つの理念型にわけたという話ではあるが、ツイッターでの情報を読んでいる限りでは、後者に近い人が多いという印象だ。

学校教育が単なる知識の詰め込みではなく、「学ぶこと」を教えているのだとすれば、前者の行動が望ましいことになるだろう。これがうまくできていないのなら、ほぼ学校教育は失敗だったと言っても良いのではないか。

それでは、この後者の学ぼうとしない人たちは、なぜ生まれてきてしまったのだろうか。どのようにして、そのような人になってしまったのであろうか。もともともそういう性格だったということも可能かもしれないが、次の二点で、教育の関与が大きいのではないだろうか。

まず、現実問題と積極的に関わろうとしない、という心性が学校教育とそのバックボーンになっている教育制度を通して形成されてきていると言えよう。現在の学校教育は、知識をため込むことに重点を置いている。パウロフレイレが銀行型教育として批判しているような教育だ。

被抑圧者の教育学―新訳

被抑圧者の教育学―新訳

それでも、ため込んだ知識を総動員して世の中の問題に取り組んでいこうというならまだましだろう。しかし実際にはそうはなっていない。多くの場合、それらの知識は、テストの点数等の貨幣となり、それが入学や就職という商品と交換されるだけだ。その知識をつかって現実の問題を把握したり、解決したりするということとはほぼ無関係に学ばれている。このことは、たとえば、受験まではかろうじて勉強するが、それが終わったら「できるだけ学習したくない」という姿勢として現れる。このことは、成人の科学的な問題への興味・関心などに関する国際調査で、日本の成人が限りなく最下位に近い順位となっていることにも端的に現れている。学習は受験のため以上でも以下でもない。そしてそれは受験とともに終わり、ため込んだ知識も時間と共に薄まり消えていく。

この場合、現在学校教育で強調されている「活用」型の学習はまったく対応策にはならない。周知のように現在、学校教育では知識・技能を確実に身につける「習得」と、それを用いて問題を解決する「活用」という区分の上で実践が行われている。活用力・応用力を測っているように見える国際学力テストであるPISAで日本が順位を下げてきたこともあって、文部科学省は「活用」型学習に力を入れてきている。国内の全国学力テストでも「習得」に対応するA問題と「活用」に対応するB問題が用意されているのもこれを受けてのことだ。

ここで活用型学習として行われているのは、失笑するしかないのだが「活用」型問題の「訓練」である。活用型の様々なパターン問題を用意して、それに習熟させるという対応だ。これはほとんど活用や応用とは対極にあるものではないのだろうか。「活用型問題の基礎・基本」の「確実な習得」と言って差し支えないかもしれない。日本の教育界がこんなものをPISA型学力と呼ぶので、私はあえて「PISAテスト対応型学力」と揶揄してきたところだ。

さて、次に、学ぼうとしないだけならまだしも、与えられた情報を鵜呑みにすることも学校教育で促進されているのではないだろうか。それはまず以前から指摘された「学校知」「受験知」「制度知」への批判の水準で論じることができる。教科内容を学んでいて「あれ? おかしいぞ!」とか「これ本当かなぁ?」などと考えていると、受験競争で置きざりにされてしまうので、教師が与えることを疑わずに受け入れるという習慣が形成されるというものだ。

それだけではない。次のエピソードはとても示唆的だ。

知人の高校教師が、放課後職員室に質問に来た生徒から「先生は、他の先生と違って、何にも教えてくれない」と不平を言われたという。この先生はとてもきちんと授業をやっているので、その生徒の発言は「人聞きが悪い」のだが、何のことはない生徒の言いたかったことは「ここはテストに出るよ」とか「この問題は難しいのでテストには出ないからやらなくていいよ」とかいうことを教えてくれない、ということなのだ。逆に言えば、多くの教師がそのように教えているのだろう。我が子の中学校などでも、教師は試験対策プリントなどを作成し、「これさえやっておけばテストは出来る」みたいなことを言っているという。

つまり教師が「先生が用意したものですべてですよ」、「これさえやっておけば大丈夫ですよ」というメッセージを与え続けているのだ。

この影響は、大学生の間にも現れているように思われる。私の勤務する大学は教員養成大学なのだが、最近の大学生はどうも、「授業さえきちんと受けておけば一人前の教師になれる」と思っているフシがある。だから、「大学の授業をすべて『教育現場に出てすぐに役に立つ』ものに変えて欲しい」と、授業内容やカリキュラムに対する要求を出すのではないか。私は40代後半だが、自分が大学生の頃、大学の授業などは、青年期の成長としても職業人としての基礎としても、大学時代に学ぶべきことの2〜3割程度のものでしかないと思っていた。授業をきっかけにして自分で本を探して読んだり考えたり、あるいは授業とはまったく関係なく世の中のことなどについて考えてたり友人と議論したり、その他様々なことを通して成長するものだと思っていた。それがどうも昨今の学生は事情が違っているように思われる。授業で不十分だと思えば、自分で勝手に学べばよいと思うのだが、そう思う代わりに、授業とカリキュラムの改変を要求するのだ。「『お上や教師』『サービス提供者』が必要なことはすべて提示するものである」という発想であり、裏を返せば、「上にいる人が提示することがすべてだ」という考え方になっているのではないだろうか。

ん? 何かに似ていませんか。そうです。福島で「政府が大丈夫と言っているのだから年間20mSv被曝しても大丈夫」という発想。上が言うことに従っておけば大丈夫というのは、このような経験の積み重ねからも生まれてくるのではないだろうか。

さて、ここで結論になるのだが、本当に学ぶ人、学び続ける人を育てたいなら、上記のようなテストのための学習、教師が言うことに従っていれば大丈夫という態度の育成をやめなければならないのではないか。国際学力テストは小学生や中学生段階の「学力」を比較している。しかし、たとえ高校卒業段階で良い成績を取ったとしても、そのときの蓄積が100であり、そこで学びをやめてしまったら、まったく劣化がないとしても100のままである。他方、仮に高校卒業段階での蓄積が60でも、そのときに自ら問題を見いだし、学び、判断するという習慣が身についていれば、その後も今回の原発事故のようなことも含めて、ことあるごとに蓄積は進むので、30歳になったぐらいで、ひょっとすると150ぐらいの蓄積になっているかもしれない。そうだとすれば、自ら問題を見いだし、情報を集め、学び、考え、判断するということを重視した教育のほうが、長い目で見れば、蓄積は多くなるのではないか。

最後に、ツイッターで見つけた至言。

鵜呑みよりツッコミを!