本物の強い指導とは何か?

はじめに

現在、教育現場では、「強い指導」が強調されている。
このことが意味するのは、「子どもをピシッとさせる」、「子どもにきちんと教師の言うことを聞かせる」、「学校のルールに従わさせる」といったことだろう。

中央集権的・強権主義的教育政策への転換

この問題を考えるときには、まずこの言葉の背景にある、文部科学省教育委員会の考え方を理解しておく必要がある。

故小渕首相の私的諮問機関であり、故河合隼雄氏が座長をつとめた「21世紀日本の構想」の報告書「日本のフロンティアは日本の中にある」には次のようなくだりがある。

広義の教育、すなわち人材育成にかかわる国家の機能には、質的に異なるいくつかの側面があることに注意しなければならない。第一に忘れてはならないのは、国家にとって教育とは一つの統治行為だということである。国民を統合し、その利害を調停し、社会の安寧を維持する義務のある国家は、まさにそのことのゆえに国民に対して一定限度の共通の知識、あるいは認識能力を持つことを要求する権利を持つ。共通の言葉や文字を持たない国民に対して、国家は民主的な統治に参加する道を用意することはできない。また、最低限度の計算能力のない国民の利益の公正を保障し、詐欺やその他の犯罪から守ることは困難である。合理的思考力の欠如した国民に対して、暴力や抑圧によらない治安を供与することは不可能である。そうした点から考えると、教育は一面において警察や司法機関などに許された権能に近いものを備え、それを補完する機能を持つと考えられる。 義務教育という言葉が成立して久しいが、この言葉が言外に指しているのは、納税や遵法の義務と並んで、国民が一定の認識能力を身につけることが国家への義務であるということにほかならない。

これを読めば分かるとおり、日本政府は教育の意味の大転換を企んできている。すなわち、教育を、主権者としての力能を形成するための欠くべからざる基本的人権として把握することをやめ、国家による国民統治の手段、すなわち臣民の育成とコントロールの手段と見なすようになったということだ。

これは現行憲法の規定に反する考え方だが、そもそも「憲法」とは国家権力の手枷・足枷なので、国家が憲法を骨抜きにしようとするのは世の常である。それにしても、ここまであからさまに憲法に挑戦する主張してもさして問題にならない現状には、驚愕するしかない。

いずれにしても、「強い指導」の流れは、このような国家による臣民形成という文脈で登場してきていることを確認しておく必要がある。

教師の教育裁量権の剥奪

ところで、教育現場では、この「強い指導」に反対することが困難な状況にある。ひとつは、文部科学省教育委員会、管理職という上意下達構造の中で、個々の教師の判断が許されないという構造がある。

本来、教育という営みは、個々の教師が、特定の時代の特定の地域の特定の家庭環境にあり特定の友だち関係を結んでいる具体的な子どもの状況を念頭に置きながら、人格発達に向けてどのように指導を構想するのか、というもののはずである。ところが、校長のリーダーシップや、教職員集団のチームワークの名の下に、具体的な子どもの現状を見ないで型にはめる教育が実践される傾向が強くなってきている。

ここでは、リーダーシップとチームワークの理解の浅さも問題になるだろう。リーダーシップの主たる構成要素は「メンバーの要求の汲み上げ・実現」「メンバーの利益の実現」だ。上位集団(政府・教育委員会)の命令を当該集団に押しつけて、メンバーを思い通りにすることがリーダーシップのはずがない。また、チームワークとは、チームのメンバーの意見を尊重しながら合意を作り上げていくものであって、多数の考えを少数に押しつけるものでない。こんなことは、少しでもスポーツや合奏・合唱・演劇など集団活動に参加したことがある人には、すぐに分かる話だ。五人組制度じゃあるまいし。

「強い指導」への誘惑

しかし、強い指導は、上からの要請だけではない。「強い指導」の誘惑に負けてしまう教員も少なくない。

ひとつには、管理職に逆らってまで「強い指導」に反対できない、さらには「管理職に気に入られて出世したい」という保身・出世欲があるだろう。このような教員がどれぐらいいるかは分からないが、教員養成大学の学生の段階からすでに「校長になりたい」という者に最近よく出会うようになってきたということだけは情報として提供しておきたい。

このことと関連して、教員評価制度も「強い指導」を促進する要因になる。子どもが荒れていたり、立ち歩いたりしていると、ダメな教師だと評価されてしまうからだ。

しかし、むしろ、そういう保身や出世欲や評価ではなく、「強い指導」に流れてしまう教員が多いのではないかと思われる。そのような教師の多くは、荒れている子ども、発達障害の子どもを目の前にして、「どのように指導して良いのかわからない」とたじろいでしまうのだろう。「こうすれば子どもたちは必ず良くなるはずだ」という指導の見通しがないと、とりあえず目の前の問題行動を抑え込む対症療法が最善の解決策のように思えてきても仕方ないだろう。かつて、体罰を肯定した教員が、体罰以外の教育の術を持たなかったのと同じような構図だ。

「強い指導」の問題点

このような「強い指導」は、教師が強い―子どもは弱い、教師が命令―子どもは従属、そういう「強−弱」の関係を創り出す。したがって、強い指導は、弱い子どもを育てていることであり、自主的に判断できない子どもを育てていることになる。強面の教師の眼前ではおとなしくしているが、強面の教師がいなくなれば荒れ放題の子どもたちになることは多くの例が示しているところだ。担任の前ではおとなしくしているが、専科の家庭科や音楽の時間にはやりたい放題になる等々。

子どもを弱者の位置に置くということは、自立した人格の形成を妨げるということを意味する。教育という営みの本質を考えたとき、これは致命的な欠点である。そもそも指導とは、子どもたちの人格を育てることであり、自立を励ますことであり、エンパワーすること(力を与えること)だからだ。

本当に強い指導者とは

先に「指導の見通し」ということを述べたが、本当の意味で「強い」指導者とは、このような見通しのある教師のことを指す。目の前の子どもの「問題行動」の原因を探るべく、子どもの苦悩の理解を優先する指導は、確かに即効性はない。しかし、子ども自身の内側の「よくなろう」とする力を十分に太らせ、子どもたち相互の間で、そのような力を活かし合える関係をじっくりと育てることで、教師の強制なしで、判断し行動できる子どもたちが育っていくのだ。このような「粘り強い」指導こそが本当の強い指導である。

また、「強(つよ)い」というのは「強(こわ)い」とも読むが、「強い指導」というのは、裏を返せば「柔軟性のない指導」ということだ。しなやかな指導こそが本当の強い指導なのではないだろうか。これは、柔道で「柔よく剛を制す」といわれるのと同じことだろう。

ここで、誤解を避けるために補足しておくが、粘り強い指導、しなやかな指導とは、決して甘い指導とか、子どもに迎合した指導のことではない。「強い」を否定するからといって、「弱い」を肯定するわけではない。強弱といった量的な問題ではなく、子どもの人格を育て、自立を励まし、エンパワーする指導か否かという質の問題なのだ。

強い指導者を育てるために

最近の学生は、技術志向・マニュアル志向がとても強い。しかし、個々の子どもが抱える問題の原因をさぐることに一定の方法論はあっても、いわゆる技術・マニュアルでそれに対応できるわけではない。むしろ、そこは「子どもの荒れにはかならず訳があること」「どんな子どもの中にも良くなろうとする力があること」といった教育観・子ども観など思想の問題なのだ。このような思想の形成が土台にあってこそ、多様な子どもたちに臨機応変に対応できるようになるのだ。ハウツーばかり身につけても、多様な子どもには対応できない。実際、技術ではなく思想を身につけて教育現場に出て行ったと私が評価している卒業生は、新任で昨年度崩壊した学年の担任を任されたが、困難にぶつかりながらも、子どもたちの思いを活かしながら一年間で学級をしっかりと育て、子どもたちからとても好かれる教師になっている。

過去のブログでも引用したが、内田樹さんは、エリートは決まった正解を求めることに長けた人で平時に対応できる人材として育てられているが、正解のない非常時にはそのようなエリートでは対応不能であるといった趣旨のことを発言している。ところが、学校の教員は、毎年違う子どもを相手にし、しかも日々変わっていく個と集団関係を相手に指導を行うわけだから、教師にとって教育という仕事は―形容矛盾ではあるが―「常に非常時」のなのだ。教育という営みの性質上、このような非常時に対応できる、臨機応変に対応できることが教師の必須条件のはずである。どんな子どもでも、どんな状況でも、同じマニュアル、同じパターンの指導で済ませようとするのは、そういう意味で非常時に対応できない弱い教師なのかもしれない。

教員養成課程大学・学部では、文部科学省の指導の下で、どんどん専門学校化が進められ、学生に、個々の技術・マニュアルを教えることが優先される傾向が強まっている。これは、最初に述べた上意下達のシステムづくりの一環なのだろう。しかし、このような技術・マニュアルしか育てられなければ、結局、「強い指導」しかできず、子どもたちを骨抜きにするか、子どもたちと和解しがたい対立関係に陥るかしかない。これでは不毛な教育しかできなくなる。

あらためて、教育とは何か、指導とは何かを、根本から考えていくことが、現場の教員にも、学生にも、教員養成系学部・大学の教員にも求められている。


最後に、旧ブログの自前サーバーがダメになったときのために、この問題に関連する、私の旧ブログのなかでしばしば検索にひっかかるページを転載しておきたい。

やさしい教師/きびしい教師(改訂版) 2009年12月15日

授業の中で、やさしい教師と厳しい教師について、議論になった。

学校の世界では、教師は厳しい方がよいなどといわれることが多いのではないか。さて、果たして、やさしいときびしいは対概念なのだろうか。

私が思うに、やさしい教師というのは、子どもの立場になって考えられる教師だと思う。ある時には、子どもの話を、言い訳も含めてじっくり聞いてやりつつ、これから進むべき道について一緒に悩んだりすることができることが必要だ。それと同時に、ある子どもにとって、「今こそ自分と闘うときだ」とか、「今がんばれるときで、しかも、それを乗り越えたら大きく成長できる」というタイミングでは、「やらなくていいよ」というのではなく、「がんばれ!」と叱咤激励できるのもやさしい教師だ。

教師は、「やさしくしたら子どもからナメられる」というような事が言われるが、その教師は優しいのではなく、(気が)弱いと表現すべきではないだろうか。気が弱いから、それを子どもが見抜いてナメてかかるのではないだろうか。そんな気が弱い教師が、生徒にナメられないように毅然とした指導をしようとしても、生徒はすぐに見透かしてしまうだろう。毅然とした指導をしようとして、生徒と距離をとってしまったのに、その毅然とした指導の背後にある弱さを見抜かれたら、どの生徒からの支えも失ってしまうのではないだろうか。まだ、気が弱い自分をさらけ出しつつ、でもおずおずと子どものために何かをやろうとする教師の方が支持層は多いのではないだろうか。

最近、箱根駅伝をテーマにした三浦しをんの小説『風が強く吹いている』を読んだが、ここで、清瀬灰二は、ランナーとして必要なのは、「速さ」ではなく「強さ」だと言う。ここの言葉を借りれば、「やさしい」教師でもなく、「きびしい」教師でもなく、「強い」教師が必要なんだろうと思う。その強さとは、生徒から自分がどう見られているかや、上司や同僚からどう見られているかに腐心するのではなく、一人ひとりの子どもの悩みに共感しながら、一人ひとりの子どもの前進の芽を探し、それを伸ばそうとする教師だろう。

全ての生徒が、そういう姿勢を理解しうるかどうかはわからないが、ほとんどの子どもは、やさしい先生であっても、厳しい先生であっても、その先生が自分たちのことを本気で考えてくれているのかは、見ぬくだろう。だから、生徒からよく見られたいと思ってやさしくしている教員も、子どもたちに対する恐怖の裏返しとして厳しく振る舞っている教師も、ともに支持されはしない。

「強くなることはなかなか難しいが、人生は常にそこに向かっての成長である」と、この歳になっても―いやこの歳になったからこそなのかもしれないが―つくづく感じる。