公開シンポジウム「いま、『いじめ』問題を考える」に参加した感想

愛知教育大学主催の「いま『いじめ』問題を考える」という公開シンポジウムに参加してきた。忙しいのでメモとして書き留めておく。

後々、加筆修正するとして、とりあえず書き殴り。


基本的に、フロアから3人の子どもを持つ母親から教師の人権感覚を問う意見が出されたことへの応答、および、年配の再雇用されている教員O氏が「いまの教師の子どもに寄り添う力が落ちているのではないか」と述べたことついての応答として、考えたことを書いておく。

1.教師は「善く生きる」ことではなく「上手く生きる」ことを奨励されている環境にある

 松原信継氏の提案で最後に述べられたように、教師の負担が多く、一人ひとりの子どもに寄り添っている余裕がないということはその通りだと思う。とりわけ、海外の教師と違って勉強だけ教えておけばよいのではなく、給食・掃除・生徒指導まですべて請け負う日本の教師が、海外の2倍近い学級定員を受け持っているのは、もはや限界を超えているだろう。しかも、後期近代において、親も子どもも多様化しているわけだから、学級定員は25人程度まで減らさなければ、問題の解決にはならない。そういう点で、教師が子どもに寄り添えるようにするためには、教師の負担軽減は必要条件だ。
 しかし、より重要なのは、松原氏が提案した学校や教員の世界に作られた「病理官僚制」の問題であろう。教員のなかに何重もの階層構造が作られ、教員評価が行われる。こうして、教師は人間教師として子どもに寄り添うことよりも、自分が出世したり、うまく立ち回ったり、うまく世渡りしたりすることを優先せざるをえない状況に追い込まれていく。これは、個々の教師が善人か悪人かという問題ではない。これに逆らうと、教師自身が精神を病むような状況に置かれるからそうなってしまうのだ。このような病理官僚制は、政府と文部科学省によって積極的に作られてきたものであることを忘れてはならない。

2.教師が学級に受け入れられるということ

 しかし、本日出てこなかった論点として、教師が「いじられキャラ」の子どもを「いじる」ことによって学級に承認されようとするという問題がある。私の一昨年の授業で、学生と最も思想闘争が必要だったのはこの問題だ。「教師はいじられキャラをいじってはいけない」という私の意見に対して、半数程度の学生が「教師が学級に入り込むためには、いじられキャラをいじるのは当然だ」という意見を持っていた。私の論点は「いじられキャラを演じなければならないような学級を変えることが教師の役割であり、いじられを強化するような関わり方は間違いである」ということなのだが、何度かのやりとりを経ても、先の考えを変えない学生が1割程度残った。その他の学生にしても、私があまりにしつこいので、それ以上言っても仕方ないと思って私に合わせた学生もいたかもしれない。どうすれば子どもに信頼される教師になれるのかという対案をさらに十分に示していくことが必要だと感じた。とりあえず、この問題に関しては、中野富士見中学校の鹿川くんのいじめ自死事件で、教師も葬式ごっこに参加していたことを学生に知らせておくことも必要だろう。

 思い起こせば、1980年代には、「オレたちひょうきん族」など、誰かをバカにしたり、攻撃したりして盛り上がるテレビ番組が広がってきた。現代の若者(というかすでに私のような40代以下の世代)は、このようないじりの文化を空気のように呼吸して育ってきた世代である。彼らにとって、それはあまりに当然のことなのかもしれない。これと挑むことが、教員養成では必須の課題であると考えている。

 しかし、このことは、教師だけの問題ではないだろう。子どものなかにもいじりの文化が広がっているのではないか。ある活動を行うときに、そのルールに従わない子どもが排除されるというなら、まだ理解できるが、今のいじめ事件などを見ると、子どもたちは関係を維持することを自己目的化しており、いじりによって、学級の人間関係を維持しているように見える。関係そのものを維持することよりも魅力的な創造的な活動が学校・学級に欠けているのではないかと考えて見ることも必要だ。

3.体罰肯定との関連で

 最近、学内の先生と話をする機会が減っているのだが、私が愛教大に就職したころ、教育原論を担当している先生から、「学生の間に体罰肯定の意見が根強い」という意見をきいた。このことも、教員養成における人権意識の向上と関連しているだろう。
 授業で、教育哲学に関しておよそ体罰とは相反することで卒論を書いて卒業した学生が、現場でバシバシ体罰を行っているということを耳にしたことがある。人権教育などを知識として学んだのでは、教員の骨身にしみこんでいかないということがわかる。体罰がなぜいけないのかを、学生の生き方が問われるような仕方で教育しなければならないのではないかと思う。
 もちろん、大学として、教員養成において全力で「体罰をけっして行わない(体罰を批判する)教員を育てる」ということを宣言し、具体的な教育目標・教育方法のレベルで、それをどうしていくのかを議論していかなければならないことは言うまでもないだろう。

4.追記「不登校は権利である」とホームスクーリングについて

 多田弁護士が「不登校の権利」の話をしたのを承けて、大学生からホームスクーリングの可能性についての問い合わせがあった。このことについても追記しておきたい。
 まず、日本の学校は学力をつけることだけが目的ではない。日本の学校には、企業戦士養成としての学力競争とならんで、国家に忠実・従順な臣民形成としての忠誠競争の機能が担わされている。とりわけ階層別にみれば、下位層には後者が要求されていることは、かつての教育課程審議会会長だった三浦朱門の「できんもんは…」という発言をみてもわかるように明白だ。
 おそらく不登校でホームスクーリングとなる子どもの場合、企業戦士の側になる高受験学力・高コミュニケーションスキルをあまり期待できないだろうから、当然、日の丸・君が代に代表されるような国家への忠誠が求められる。しかし、ホームスクーリングでそれを行うことは困難だろう。だから、政府・文部科学省がホームスクーリングを認める可能性は、予算面はもちろんのこと、学校に担わせている主要な役割からしてもとても低いのではないだろうか。
 フリースクールに通ったことを学校に通ったこととして認可するという措置もあるが、これは政府が恩寵として与えたもの、つまり、国家への敬愛を抱かせるという目的もあるのではないかと思ったり…。