マルティンニーメラーの詩「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」から考える

Twitterで橋下・松井維新の会の朝鮮学校差別に関する議論をしていて、金明秀(@han_org)さんや@motagaoさんと議論になった。その中で、マイノリティへの差別の禁止の理由について少し考えを改めた部分があるので、メモとして残しておきたい。

私のツイートの趣旨は、
①橋下維新は本当に在日朝鮮人朝鮮学校を憎んでいるのかどうかはよくわからなくて、攻撃すれば自分の支持率が上がるターゲットを探して攻撃しているのでいなということ、
②となれば、朝鮮学校をつぶしてしまえば矛先は次のターゲットに向かうだろうから、次にターゲットになるのは誰でもありうるということ、
の二点であった。

これに対して、金さんたちは、ターゲットは恣意的かもしれないが、ランダムではなく、植民地主義反共主義に根ざした歴史があるということ、そしてマイノリティーが排除のターゲットとして何重にも選ばれる傾向があることを指摘して、私の主張に異議を唱えた。

私の主張は、多くの人が知るところのマルティン・ニーメラーの詩「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」や炭鉱のカナリアと同じ論旨となるわけだ。この詩は、橋下氏の動きを見ていれば、現状でも十分に通用する論理構造をもっていることは疑いえない。

詩の原文と和訳は→「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」

しかし、ここには重大な問題がある。絶対に自分に矛先が向かってこないとわかっている状況があると仮定すれば、マイノリティが攻撃されたとしても、それに反対する理由がなくなってしまうからだ。要するに、自分の利益になる/ならないという基準のみで判断すると、弱者が生きようが死のうが関係ないということになってしまうわけだ。

だから、マイノリティが差別されているときには、単なる利害関心の問題ではなく、どんな人の人権が侵されることも許してはならないという倫理性の問題として議論をしなければならない。

だから、議論するときに「いつかあなたも攻撃されるかも知れない」というだけではなく、「あなたは人としてそれを許せるのか」という論点を外してはならない。この議論がレイシストに通用するかどうかわからないが、倫理性の点からレイシストを批判する論理を展開することが必要だろう。