少年犯罪への死刑判決に寄せて

今回の死刑判決に対して、世間の人々はどのような感想を持っているのだろうか。

様々な人がいると思う。まずはじめに、妻と子どもを殺された本村さんの受け止めはどうだったろうか。記事によれば、以下のようだ。

「大変満足しているが、喜びの感情は一切ない。厳粛な気持ちで受け止めないといけない」。うっすら涙を浮かべ、真剣な表情で判決の感想を述べ、「死刑について考え、悩んだ13年間だった」と振り返った。
事件直後は、家族を守れなかった自分を責め、自殺も考えた。「時間は最良の相談相手だった」。怒りの気持ちも年月とともに収まり、冷静に考えられるようになった。

時事通信:「社会正義示された」=死刑考え、悩んだ13年間―「喜びなく、厳粛」・本村洋さん」2012.2.20

被害者として応報感情を持つことはごく自然なことかも知れない。だから「大変満足している」ということについて、他者があれこれ言うべきことではない。
(ただし、何を自然と考えるのかは難しい。殺されたわけではないが、佐賀のバスジャック犯に重傷を負わされた女性自身が、応報感情よりも同情を表していたことを考えてみる必要がある。自然とは、それまでの各人の経験の総体の結果だろう。)

また、本村さんに共感して、死刑判決に「ざまみろ」と考えている人もいるかも知れない。この人たちが、自分の妻や子どもが殺されたことを想像して、そのように言うこともあり得ることだろう。もちろん、本村さんが考えてきた、殺人・死刑・被害者の権利等々、複雑な感情についてはほとんど考えることなく、なんとなく共感しているつもりになっている人が多いのだろうとは思うが。

しかし、私の感覚では、多くの人は、「人を殺したのだから死刑で当然」といった単純な感覚ではないだろうか。彼の犯行後の言動を知っている人のなかには、「いい気味だ」と考えたりしている人も少なからずいるだろう。

この最後の感情について、私は、とても危険だと思う。このような危険思想が重大犯罪の温床になっているのではないかとすら思う。

なぜそう思うのか。それを説明するために、今回の死刑判決に対する日弁連に会長声明に注目してみよう。会長声明には、死刑廃止の国際的趨勢や、国際社会から日本に対する死刑廃止の勧告などについても書かれてあるが、今回は、そこではなく、加害者のに生い立ちについて書かれてあるところだ。

被告人に対する父親からの暴力、母親の自殺などが被告人の精神形成にどのような影響を与えたのか、犯行時の精神的成熟度のレベルはどのようなものであったかを分析し、測る作業が必要であった

"犯行時少年に対する死刑判決に関する会長声明"

ここに見られるように、少年は幼少時から、「まとも」に成長する機会を幾重にも奪われていた。かれは、大人や社会の不作為で、あのように育ったのかもしれない。また、大人や社会に対する根深い不信感から、反省の色を示さなかった(示せなかった)のかもしれない。(名古屋の大高公園アベック殺人事件の少年たちは、社会的に地位の高い人たちに強い敵意を持っていたという話を聞いたことがある。)

たとえば、私が知っている生活指導実践家の教師が、小学校の時とか中学校の時にたった一年でも担任していれば、もしかすればこのような犯罪に手を染めなくても済んだかもしないとすら思う。

親や地域社会や教員などの大人、虐待を防げない社会、親を亡くした悲しみからの立ち直りの責任を本人ひとりに課してしまう社会、これらの問題は問われないのだろうか。私は、不遇な幼少期を過ごした子どもを救えなかった地域や学校や社会にもきわめて重大な責任があると思うのである。彼に判決に「いい気味だ」と思っている大人がいるとしたら、不遇な幼少時を過ごさせた(そして今も多くの子どもに不遇な幼少時を過ごさせている)自分の責任を負わないという点において、重罪であるとすら思う。

そういう意味では、NHKのニュースで、「少年の重大事件、厳罰化の方向」として「立ち直りの可能性よりも事件を起こした責任や結果を重く見る」などと上っ面なな報道がなされることにはとても違和感を感じてしまう。

少年の起こした重大事件で死刑判決が出たとき、我々大人や社会が「慚愧に堪えない」、「忸怩たる思い」との感情を持つようでなければ、社会から重大犯罪はなくなることはないだろう。その意味で、今回の判決が、大人たちに自らの責任を問わせるものになっていない点は、重大な瑕疵だと思う。

判決という行為は、社会を作り出すという面もある。だから、どうすれば重大犯罪がなくなるかを考えて判決を出してもらいたいのだ。多くの人が、彼がなぜ犯罪を犯してしまったのかを考えざるを得ないような判決が必要なのではないだろうか。世間が「偉い」と言われる人たちの、社会や時間に対するリーチが短くなっていることも、とても気になるのである。