憲法改正手続き問題を考える

自民党や維新の会が憲法96条の「改正」とそれとの関連で憲法9条の「改正」に具体的に言及し、来る参議院選挙の結果次第では、自民と維新など改憲勢力を合わせると、憲法96条の規定である衆参両議院の3分の2を占める現実的可能性も出てきた中で、憲法改正手続きについての議論が活性化してきた。

「改正」したい側は、やたらと日本の憲法の改正手続きが「硬性」すぎる(ハードルが高すぎる)ことを強調しているが、先進国は多かれ少なかれ日本並みに改正手続きのハードルが高いという反論も行われている。このあたりについては、ネットでざっとみた限りでは、次のページがわかりやすいと思うが、私が見るところでは、日本の憲法がとりたてて変えにくいとは読めない。

世界の憲法改正手続比較(All About)


ただし、他国と比較するのは、他国が憲法をどのようなものと捉えているのかを理解する手がかりはなるが、手続きの形式のみを見て、外国がそうだから、日本もそうすべきだとか、外国は関係なく、日本独自にやれば良いと考えるのは、すこし短絡的に過ぎると思う。


私はそうは思わないが、仮に日本の憲法の改正手続きが世界で一番ハードルの高いものであったとしても、それが憲法の存在意義に添うものなら、それはそれでちっとも構わないと思うわけである。

では、憲法の存在意義とは何か。最近私の瞥見するところでは、「立憲主義は国家権力の手を縛るものであるから、簡単に変えられないようにしてある」という議論が主流であるようだ。もちろん、前回の安倍政権でも今回の安倍政権でも、総理大臣が憲法改正の先頭に立つところを見てしまうと、立憲主義を持ち出したくなるのは、わからないではない。そもそも、現行憲法の99条では、

天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ|

とされているわけだから、総理大臣が改憲を目指すなどと口走れば、それは憲法違反である。(そして、それは、暴力団が暴対法の改正を目指すと言っているのと同じ構図でもある。)30年前の日本なら、まだ今よりもう少し民主主義が浸透していたので、内閣総辞職をしなければならないような大問題に発展していたはずだ。現在そうならないのは、マスコミが権力批判の役割を放棄し、むしろ権力者の片棒を担いでいるからである。問題の所在をマスコミが示さないので、国民がことの重大性に気づきにくくなっているに過ぎない。

それはさておき、立憲主義とは、憲法によって権力者の手を縛るものだから、改正手続きのハードルが高いというのは、いささか論拠としては弱いように思われる。国会議員も憲法尊重・擁護義務を負わされているが、「憲法が国民によって政府の手を縛るもの」だとすれば、国民の代表者である国会議員には、憲法改正を提案する権限はあるはずだからだ。

しかし、国会議員に憲法を変える権限があるとしても、私は憲法はできるだけ変えにくい方が良いと思っている。それはなぜか。

基本的人権は、そのハードルが過半数であろうが、3分の2であろうが、4分の3であろうが、投票によって与えたり奪ったりできる性質のものではないからである。もし投票で決められるならば、とても簡単にマイノリティを排除することが出来てしまうのではないか。マジョリティの声で、誰かの人権が奪われないようにするための歯止めとして作られているのが憲法ではないかと思うわけである。

仮に、投票で人権が奪えることになれば、ナチズムで起こったようなことが、合法的にできてしまうことになる。人類が、「多大な」という言葉では言い表せないほど多くの犠牲を払って、そのような愚行を繰り返さないために作り出した仕掛け、それが憲法なのではないか。人類が決してそれ以下に堕ちてはならない基準線、人間が人間以下にならない最低限のラインをまもるために憲法があるのではないか。

そこまで大げさに言うと、「まさか日本が全体主義に戻ることはないだろう」と思われるかもしれないが、マイノリティを生活保護世帯だったり、若者だったり、老人だったり、ニートだったりに置き換えて考えれば、容易に起こりうる問題である。「生活保護世帯は甘えているので援助しなくてよい」、「近頃の若者はたるんでいるから徴兵制で鍛え直した方が良い」等々。投票で決めるとなると、簡単に基本的人権を奪えそうなテーマは山ほどある。主観的に過度に個人化された再帰的近代を生きる現代人は、そのような過ちを犯してしまうリスクにつにねさらされていると言って良い。

おそらく、法哲学者、法社会学者なら、このような観点から、議論をすすめるのではないか、と想像しながら素人なりに書いてみた。


ちなみに、日本の憲法が一度も変えられなかったことを批判する人がいるが、それは彼らの意に反して、「変えなければならない」と大多数の国民や議員が思うような、問題のある条文が存在しない、かなりよくできた憲法であることの証明となっているのではないだろうか。

道徳の教科化は道徳教育の劣化を招く

自民党が次々と、教育の条理に反することをやってくる。条理に反するだけでなく、科学に反するから、現場が混乱するだけで、子どもたちの成長・発達にとってマイナスなことが多いのだが、いずれにしても、その基本骨格は、ほぼ、「教育の中央集権」と、「教育の政治利用」の2点に集約できるのではないかと思う。

今日は、「道徳の教科化」の問題について指摘しておきたい。あらかじめ内容を予告しておくと、第一に、「何が道徳的に正しいのか」という道徳の内容を誰が決めるべきなのかという問題であり、国家が決めることがいかに危険であるかという問題である。第二に、道徳を教科にすることが、いかに非道徳的な人間を育てることになるか、という問題である。

国家が道徳の教師になる資格があるか。

国家が道徳内容を決定することは危険きわまりない

政府がしばしばウソをついたり(先の民主党がほとんどの主要な公約を反故にしたこととか、自民党が選挙の時にはTPP断固反対といいながら、政権をとったら交渉参加表明するとか)、憲法違反を行ったり(現在の憲法では国務大臣憲法を尊重し擁護する義務があるが、平気で憲法改正を口走ったりしている)しているから、道徳を語る資格がないということはあるにしても、そのような卑小な問題ではない。

むしろ、先のアジア・太平洋戦争の時に、国家が国定教科書を通じて、どのような道徳を国民に押しつけてきたかという問題と関わっている。国家は、道徳の内容決定において間違いを犯しうるだけではなく、意図的に間違えるものなのである。たとえば、「お国=天皇のために死ぬことは善いことである」とか「目上の人、政府に逆らうことは悪いことである」というような道徳を提示し、そう思い込むように統制したり、マインドコントロールしたりすることで、政府は国民に一方的に負担や苦難を強いる政策をとることが、より簡単にできるようになる。負担や苦難への不満に対して「愛国心が足りない(非国民=反日だ)」とか」「我慢という道徳が育っていない」とかいうことで、悪いのが政府ではなく、国民、子どもたちの側である、と強弁できてしまうからである。

このあたりに関しては、日本の明治以降の道徳教育史を勉強することがとても役立つのだが、これまで、自由民権運動などの民主主義を発展させる運動が起こってくると、道徳教育を強化し、道徳教育を通じて民主主義を抑圧してきた。これは単に戦前の問題だといって片付けられる問題ではない。国定道徳と民主主義とは、本質的に相容れないものなのであるということを理解しなければならない。

ちなみに、道徳の歴史を知るなら、次の本を参照のこと。

学校教育と愛国心―戦前・戦後の「愛国心」教育の軌跡

学校教育と愛国心―戦前・戦後の「愛国心」教育の軌跡

道徳の内容は市民が相互に討議する中で決まってくるものである

もちろん、道徳教育を行ってはならないと言っているわけではない。道徳教育は教育の中心的な課題でさえある。問題なのは、その内容の決定のされ方である。
たとえば、「目上の人は尊敬しなければならない」という徳目があったとする。しかし、そもそも目上とは何かということも定かではないので、何をもって目上とするのかということから議論しなければならなくなる。辞書的には「階級・地位や年齢が自分より上であること」ということであるが、はたして階級が上だから尊敬しなければならないのか、地位が上なら偉いのか、歳が上なら偉いのか、ということは、子どもたちが日常暮らしていれば、当然突き当たる問題である。そのときに、目上だから敬えではなく、目上とか目下とかではなく、他者にどのように接するべきなのか、どのような人こそが尊敬されるべきなのか、ということが議論されてしかるべきである。このように、日常の実感や経験をつきあわせながら、子どもたち(市民)が、よりよく生きていくために作り出したものこそ、道徳の内容であるべきだということだ。この点で、道徳の内容は市民および子どもたちによる討議の結果として確定されていくものだということだ。

特定の考え方を押しつける道徳の滑稽さについては、次の本がとても参考になる。

内容が正しくても教科としては教えられない

テストで道徳性は計れない

道徳を教科にするとはどういうことかをよく考えてみる必要がある。それは、学習指導要領で教えるべき内容を決め、教科書をつくり(当然教科書検定が行われる)、教科書の内容を覚えたかどうかをテストで計測し、成績をつけるということだ。

ここでまず第一に、注意しなければならないことは、テストができたからといって道徳的に成長しているわけではないということだ。教育学では、学習指導の結果は、教科内容を教えてできるようになったかどうかをテストで計測することはできるが、生活指導・道徳教育では、人間が本当にそう思っているかや、現実のなかでそのように行動することができるかということが問題となるので、テストでは計測できないというのが常識だ。

道徳の教科化は裏・表のある人間を育てる

テストでは「お年寄り・妊婦・障害者等に席をゆずる」と解答する子どもが、実際に席を譲るわけではない。逆に、いつもすすんで席を譲っているのに、何度が「ワシを年寄り扱いするな」と怒られた子が、テストで悩んで、「場合による」などと解答することもある。決して席を譲りもしない子が、テストでは「お年寄り等に席をゆずる」と解答して優秀な成績をとり、教師から「あなたは道徳的に優れた人です」などと褒められて鼻を高くし、悩んだ子が「あなたは道徳的に問題があります」などと評価されるとすれば、こんな非道徳的なことはないだろう。
道徳の教科化は、裏表のある人間を育てるだけであって、決して本当に道徳的な人間を育てるわけではない。

人類的課題について考え、哲学する時間に

では、道徳の時間に何をするのだろうか。基本的には、これからの道徳をどうつくっていくのかを考える時間にするのがよいと思う。一方で、いじめや体罰・暴力、差別などの身近な問題がある。この問題にどうやって向き合っていくのかということを考えてもよいだろう。大切なのは、「いじめはいけない」等の単純な結論を教え込むことではない。なぜいじめが起きるのか、どういうときにいじめたくなるのか等も考えつつ、その原因の除去も含めていじめを理解し乗り越えていく力をつけることではないか。他方で、地球温暖化、食糧問題、人権問題、戦争・紛争と平和の問題などがある。グローバル化していく社会で、子どもたちは、今後、多くの問題に直面していくことになるだろう。国家と民主主義の問題も重要な課題である。これらの問題をどのように解決していくべきなのか、そのときの考え方の基盤に、どのような原理を据えるべきなのかを、みんなで探っていく時間にすれば良いのではないか。


道徳の教科化のねらいは何か、どのように対峙すべきか

道徳を教科化することの無意味さと弊害は、教育学のなかでは過去に何度も議論されてきており、もはや議論する必要すらないことだと考えれている、と言っても過言ではない。そんな政策を恥ずかしげもなく出してくるのを無知だと批判することに意味はない。なぜなら、政策を出してきている側は、そんなことは承知の上でやっているだろうからだ。

では、なぜ現在、与党・政府が、これだけ学問的には批判のある「道徳の教科化」をやってくるのか。それは、国家が道徳を独占し、テストによる評価によって脅しつつ、子どもたちに特定の考え方をすり込み、国家が示す道徳内容以外の道徳について考えさせないようにするためだろう。戦前、そうすることによって、すすんで兵隊に志願し、政府を批判する人たちを「非国民」と蔑視する人間が育っていったことを考えると、バカバカしいと笑って済ませるわけにはいかないだろう。

我が子を、国家や多国籍企業のための捨て石として育てた/育てるつもりはない、と思う人たちは、道徳の教科化に強く反対していかないと、大変なことになるのではないかと思う。

自民党の教員養成政策がダメすぎる件

毎日新聞がいくつか自民党の教員養成政策について報じている。これがあまりにひどいので、久しぶりだが、ブログに整理しておきたい。

まず記事をいくつか引用しておこう。

 教員希望者に「准免許」を与えて学校に配属、「数年の試用期間」を経た上で「本免許」を与える「インターン制度」を導入し、指導力向上を目指す。本免許を与えた教育委員会が任免権を持ち、責任を負う。現在の制度を抜本改革する内容で、党の教育再生実行本部や政府の教育再生実行会議の議論を経て制度設計に入る。指導力向上を目指して民主党政権時代に打ち出された「教員の修士レベル化」は事実上、凍結される見通しとなった。
 現在の教員免許制度では、大学などで教員養成課程の単位を満たせば、卒業時に免許が与えられ、採用試験に合格した自治体の学校で勤務する。1年間は試用期間になっている。中央教育審議会は昨年8月、指導力不足解消のため、教員を「大学院の修士レベルを修了する」とする内容を答申していた。これに対し、自民党内では「大学院で勉強すれば指導力が向上するものではない」と異論が出ていた。
(以下略)

教員制度改革:「試用」3〜5年 新卒は准免許 自民検討

 自民党が検討する「教員インターン制度」は「教員の質」について、校長・教育委員会が責任を持つ点が特徴だ。政府の教育再生実行会議の議論同様、学校教育の責任の所在を明確にする流れの一環といえる。
 指導力不足教員が出る一因として、学校内の縦の連携の弱体化がある。かつては、ベテランが若手の先生役になり、授業法や問題への対処法を伝承していた。だが今は、事務作業や保護者対応などが膨大になり、ベテランも余裕がなく自分のことだけで精いっぱいなのが現状だ。今回の自民案は、校長・教委に教員育成の義務と責任を持たせるため、新人が放置されることはなくなるとみられる。

教員制度改革:「教員の質」担保 校長・教委に責任

問題がありすぎて、どこから手をつけて良いのか分からないほどなので(笑)、思いつくままいくつか問題点を挙げてみたい。

1.現場や教育委員会に教員養成の力が十分にあるのか

 そもそも「大学院で勉強すれば指導力が向上するものではない」というのは、何を根拠に言っているのだろうか。自民党は、このことに関してどのような検証をしたのだろうか。単に思いつきで言っているに過ぎないのではないか。いわゆる既設の教育学研究科といわれる大学院を念頭に置いて議論したとしても、ほとんど根拠のない言いがかりだしか思えないが、最近の実践に傾斜した教職大学院に関して言えば、かなり鍛えて送り出していると自負している。少なくとも、本学の教職大学院に関して言えば、教員側の実感としても、採用していただいている教育委員会の側の実感としても、教職大学院修了生の評価は高いのではないか。だからこそ、教員採用試験の一次試験免除などをしていただいているし、教員採用試験の合格率もかなり高い。(昨今、教員採用がとても多いので、優秀な学生はあまり大学院に進学しないことを念頭に置いて考えてみれば、合格率が高いことの意味は大きいでしょう。)

 また、学校現場や教育委員会によって教員研修が十分に可能なのだとすれば、教員はずっとOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)しているはずだから、立派な教師になり、学校でいじめ、体罰不登校などのさまざまな問題は生じていないはずである。ところが、現実にそれらは起こっているのだ。このことを見ただけでも、現場や教育委員会による研修では不十分だということは一目瞭然である。教育現場の内側だからこそ見える問題があるのは当然であるが、内側にいるからこそ慣れきってしまって見えなくなる問題もあるということを忘れてはならない。この点で、教育を科学の目で捉えなおし、学校にある慣習を相対化することができる場としての大学院は重要かつなくてはならない場なのだ。

2.ベテランでも苦労している

 学校の諸問題の原因が、あたかも、学校内の縦の連携の弱体化によってベテランから若手への伝承が困難となっていることにあるように描いているが本当か。学習指導要領も含めて、猫の目のようにコロコロ変わる教育政策によって、現場の教員は常に学び直さなければならなくなっているため、年齢的にはベテランであっても、10年ごとにリセットされて新参者・初学者にされてしまうということを自民党は理解しているのだろうか。たとえば、生活科の導入で、現場で経験と勘で指導をしてきた年配教員が、大学で学問として生活科について学んできた新人に、ためになることを本当に教えられるのかは疑わしい。だから、単純にベテランから新人に伝承されにくくなったことが指導力不足の原因だとはいえないのではないか。
 これと関連するが、教育の特定の方法を提案し、押しつけまがいのことが行われていることも教師力の向上を妨げている。この先頭に文部科学省教育委員会が立っていることも珍しくない。たとえば、指導要領で「言語活動」というキーワードが導入されると、どの教科でも、どの単元でも「とにかく言語活動を取り入れなければ良い授業ではない」といわんばかりに、授業のあり方が規制される。子どもの認識や思考の発達にとって、この単元でそれが本当に好ましいのか、ということを考える余地すら与えないようなことが起こっている。美術の授業なのに、創作・制作もせず、また創作・制作の向上に繋がりそうもない「話し合い」が延々と行われるというような悲喜劇などは良い例だ。ベテランも新人も、このような波にのまれて、自分で良い授業とは何かを追求する余地を与えられていないことがしばしばあるのだ。こんな指導をしていたら、ますます子どもたちは離れて行ってしまうおそれもある。一見指導力の問題にみえることも、実は、教育行政が提示する教育内容・教育方法の問題があることは珍しいことではない。
 また、中堅といわれる現職教員も教職大学院に入ってくるが、エリートであり、教師としてのそれなりの腕をもっていると評価できる彼・彼女らであっても、教職大学院で学ぶことは少なからずあるのではないか。すくなくとも現職教員の実習指導で現場に入っている立場から見ても、ベテラン教員・ミドルリーダーと言われる教員にも、まだまだ学ぶべきことはたくさんあるというのが実感である。指導が立ち行かなくなって定年前にやめてしまう教師が続出している問題を自民党はどう考えているのだろうか。

3.教育には時間と金と人手が必要だということを忘れている

 上記の最後の点とかかわって、自民党は金は出さずに乾いた雑巾をさらに搾ることしか考えていないように思えて仕方ない。「ベテランからの伝承がうまくいかないから教育委員会と校長が責任を持て」と言うが、そもそも「事務作業や保護者対応などが膨大に」なっている現状で、誰がいつ若手の指導をするのだろうか。若手はいつ指導してもらえる時間をとれるのだろうか。教育はタダではない。教育には人と金と時間というコストがかかるのだ。この点からみて、自民党に、校長や教育委員会が指導できるように、大幅な人員配置とそのための予算措置をするつもりはあるのだろうか。たとえば、若手教員1人につき、校長に助手1人をつけるとか、新人教育担当として新人教員10人に1人ぐらいの割合で、教育担当職員を教育委員会に配置するつもりがあるのだろうか。とうていそんなことを考えているとは思えない。
 ごく一部、担任を持たない教諭を増やすとは書いてある。しかし、教科担任でもない小学校で担任を持たない教諭を増やして、どうやって研修するつもりだろうか。また、日本の場合、授業もあるが、若手教員がいちばん戸惑うのは学級づくりである。ここがうまくいかなくて、子どもや保護者とトラブルになることが多い。さらに、授業は、日常の学級づくりの土台の上で成立している面も多々ある。担任を持たせずに、何を育てるつもりだろうか。

4.校長や教育委員会に媚びを売れば生き残れる仕組みとなっている

 さらに問題なのは、インターン後に生き残るためには、教育委員会や校長の覚えがめでたくなければならないことだ。そうなると、何がおこるか想像するのは容易だろう。校長をヨイショし、場合によっては、盆暮れに付け届けをし…。目の前の子どものためを思って、ときには校長に意見したりすることは、自らのクビを危うくすることになるので、控えるようになる。そうなれば、間違っていても校長の個人的な「教育理論」や「教育方法」が絶対化され、教育理論や教育方法が切磋琢磨の中で向上するということがなくなってしまい、かえって指導力は低下するだろう。

5.中央教育審議会の答申を軽視しすぎている

 大学の英語教育に関するTOEFLの導入に関する議論でもそうだが、ほとんど根拠も示さない素人の思いつきのようなことを次々と政策として提案してくるのには、唖然とせざるを得ない。(TOEFLに関する自民党教育再生実行本部の遠藤氏の根拠のなさについては→http://d.hatena.ne.jp/gorotaku/20130404/1365066300
 少なくとも、それなりの専門家を集めて、長期にわたって議論して結論を出した中央教育審議会の答申をなかったことにして、勝手に方向転換するのは、民主主義的手続き論からして許されるべきことではない。確かに、中央教育審議会は中立ではないし、教育学の専門家は少なく、本当の専門家集団とも言えないが、少なくとも政治からは独立していなければならない教育政策の正当性を担保するために、中央教育審議会を設置してきたはずである。政権が変わったという理由で、チャラにできるのだとすれば、中央教育審議会が教育という見地から答申を行ってきたという形式的な中立性すら、否定することになってしまう。そのことは、そのまま過去に政権をとっていた自民党に対しても、今後の自民党に対しても跳ね返ってくる問題だろう。

6.人間の社会的自立を根本から破壊する

 教員の身分を著しく不安定な状態に置くということも大問題である。このことを一般の企業に置き換えて考えてみてもらいたい。企業に正社員として採用されても、数年間はあくまでインターンであって数年間あるいは数年後にクビにされても仕方ないという制度を導入するのだとしたら、人々が職を得て働くことで生きていくという人間としての基本的な条件が破壊されることになるだろう。数年間頑張ったあとでダメだしされて、また別の職種にインターンで就職し、またダメだったということになったら、そこで得た知識や技能はその都度リセットされることになってしまう。このことは、社会的に見ても、壮大なる無駄を生み出してしまう。もちろん、「人間は掃いて捨てるほどいるから、使い捨てにしても構わない」というなら話は別だが、そうだとしても、捨てた人の代わりにまた新たな人を研修しなければならないわけで、壮大なる無駄であることに変わりはない。そもそも、ユネスコの『教員の地位に関する勧告』から見てもどうよ? ってところである。

7.採用し、育てる側の構えが低下する

 また、とりあえず採用して使ってみてダメだったら、クビにすればよいというようになると、最初の教員採用のときに慎重に見極めなくなるという弊害も生じよう。この人とずっといっしょに教師集団をつくっていくのだと思えばこそ、採用するときに慎重になるのではないか。また、万一、採用するときに見る目がなくて、あまり優秀でない人を採用してしまったとしても、それは採用してしまった責任があるのだから、責任を持って育てるというのが、人としての責任のとりかただろう。たとえそれほど優秀でなくても、責任をもって育てるという覚悟が必要なのだ。そのような覚悟なしに、安易に採用し、育てることもせず、勝手にやらせておいて、優秀な者、自分で勝手に育ったものだけ残して、あとはサヨウナラとなるような仕組みは、退廃する。また、安易に採用され、育たない教員に、短期間でも教えられる子どものことも考慮しなければならないだろう。このような仕組みの一番の被害者は、教育の最大の受益者である子どもたちである。

8.数年間、半人前の教員に教えられる子どもたち?

 そもそも数年間の見習い教員という位置づけをつくることになると、子どもたちの中に、一人前の教員に教えられる子どもと、半人前の教師に教えられる子どもという問題を作り出してしまう。このことは、子どもや保護者から見たらどう見えるのだろう。「私の子どもの担任は一人前の教員にしてください」「私の子どもの授業は一人前の教員に担当させてください」という保護者の要求があった場合に、学校はどう対応するつもりなのだうか。

体罰で自殺した学校と体罰があっても自殺がない学校に境界線はあるか

自殺が起こらなければよいということではなく、体罰は教育上有効ではないどころか有害だし、教育力の点からしても稚拙であるということは大前提である。

しかし、今回は、自殺防止という観点から見ても、橋下市長の考え方がいかに間違っているかを指摘しておきたい。

まず第一に、大阪の桜宮高校の体育科での生徒募集に関して、橋下市長は、私が決めたのではなく、教育委員会が決めたのだと責任転嫁していることは論外だろう。募集するなら予算執行を停止すると、議会で承認済みの予算の執行まで独断で変更するとの脅しで、教育委員会に圧力をかけたことにはダンマリで、最終的に教育委員会のせいにするとは卑怯としか言いようがない。以前、日の丸・君が代で教員に強制したときの言いぐさとまったく同じ構図だ。事実上自分で決めておいて、形式上、他人に責任をなすりつけられるようにするとか、どれだけ潔くないんだろうと思う。まあ要するに、今回の生徒募集の最終的な判断と責任は橋下市長にあるということだ。

その上で、第二に、橋下市長は「体罰があれば募集停止なら、桜宮高校だけでなく、他の高校でも募集停止すべきではないのか」という批判に対して「桜宮は自殺者を出した。自殺というのは一線を越えている」として、桜宮だけの募集停止を正当化した。

これはまったく論理的におかしいだけではなく、自殺を防ぐ上という目的を設定した場合には、むしろ問題の方が多い。

先日の愛知教育大学のいじめシンポジウムで社会学者の川北稔氏は、いじめ自殺があった後いじめに関するメディアの報道が急増し、文部科学省の調査でもいじめ件数が急増するというデータを示した上で、自殺がないとだれも注目しないことに注意を促していた。いじめ自殺があっても数年経つと、メディアでも調査結果でもいじめは下火となり、またしばらくして次の自殺があったら同じことを繰り返すという。川北氏の提案では、「自殺しなくてもこんな取り組みでいじめがなくなったよ。改善したよ。」と、自殺しなくても解決した事例を継続的・積極的に報道することこそが大切なのではないかということだったと思う。これによって、子どもたちは自殺しなくても解決するかもしれないという希望を持つことができるのではないか。

そうだとすれば、「自殺があった学校には改善のための対応を迫るが、自殺がなかったら問題としない」という橋下市長の姿勢は、子どもたちに「改善するためには自殺するしかない」という誤ったメッセージを送ることになるのではないか。

そもそも、自殺するかどうかは、体罰の重さと直接結びつくわけではない。もっとひどい体罰を受けても耐えている子どもだっているだろうし、桜宮高校よりもっと軽い体罰でも自殺する子どもはいるだろう。

ここで言いたいのは、子どもに、体罰をうけても自殺しない強さが必要だとか、自殺する子は弱い子だ、などということではない。どれぐらいの体罰なら必要で、どのくらいの体罰なら過剰だ、という線引きは事実上できないということだ。だから、橋下市長のように、部活での体罰は否定しながら生徒指導上のある程度の体罰は容認するというような主張は、自殺防止というリスクマネジメントの点では全くでたらめだということだ。

公開シンポジウム「いま、『いじめ』問題を考える」に参加した感想

愛知教育大学主催の「いま『いじめ』問題を考える」という公開シンポジウムに参加してきた。忙しいのでメモとして書き留めておく。

後々、加筆修正するとして、とりあえず書き殴り。


基本的に、フロアから3人の子どもを持つ母親から教師の人権感覚を問う意見が出されたことへの応答、および、年配の再雇用されている教員O氏が「いまの教師の子どもに寄り添う力が落ちているのではないか」と述べたことついての応答として、考えたことを書いておく。

1.教師は「善く生きる」ことではなく「上手く生きる」ことを奨励されている環境にある

 松原信継氏の提案で最後に述べられたように、教師の負担が多く、一人ひとりの子どもに寄り添っている余裕がないということはその通りだと思う。とりわけ、海外の教師と違って勉強だけ教えておけばよいのではなく、給食・掃除・生徒指導まですべて請け負う日本の教師が、海外の2倍近い学級定員を受け持っているのは、もはや限界を超えているだろう。しかも、後期近代において、親も子どもも多様化しているわけだから、学級定員は25人程度まで減らさなければ、問題の解決にはならない。そういう点で、教師が子どもに寄り添えるようにするためには、教師の負担軽減は必要条件だ。
 しかし、より重要なのは、松原氏が提案した学校や教員の世界に作られた「病理官僚制」の問題であろう。教員のなかに何重もの階層構造が作られ、教員評価が行われる。こうして、教師は人間教師として子どもに寄り添うことよりも、自分が出世したり、うまく立ち回ったり、うまく世渡りしたりすることを優先せざるをえない状況に追い込まれていく。これは、個々の教師が善人か悪人かという問題ではない。これに逆らうと、教師自身が精神を病むような状況に置かれるからそうなってしまうのだ。このような病理官僚制は、政府と文部科学省によって積極的に作られてきたものであることを忘れてはならない。

2.教師が学級に受け入れられるということ

 しかし、本日出てこなかった論点として、教師が「いじられキャラ」の子どもを「いじる」ことによって学級に承認されようとするという問題がある。私の一昨年の授業で、学生と最も思想闘争が必要だったのはこの問題だ。「教師はいじられキャラをいじってはいけない」という私の意見に対して、半数程度の学生が「教師が学級に入り込むためには、いじられキャラをいじるのは当然だ」という意見を持っていた。私の論点は「いじられキャラを演じなければならないような学級を変えることが教師の役割であり、いじられを強化するような関わり方は間違いである」ということなのだが、何度かのやりとりを経ても、先の考えを変えない学生が1割程度残った。その他の学生にしても、私があまりにしつこいので、それ以上言っても仕方ないと思って私に合わせた学生もいたかもしれない。どうすれば子どもに信頼される教師になれるのかという対案をさらに十分に示していくことが必要だと感じた。とりあえず、この問題に関しては、中野富士見中学校の鹿川くんのいじめ自死事件で、教師も葬式ごっこに参加していたことを学生に知らせておくことも必要だろう。

 思い起こせば、1980年代には、「オレたちひょうきん族」など、誰かをバカにしたり、攻撃したりして盛り上がるテレビ番組が広がってきた。現代の若者(というかすでに私のような40代以下の世代)は、このようないじりの文化を空気のように呼吸して育ってきた世代である。彼らにとって、それはあまりに当然のことなのかもしれない。これと挑むことが、教員養成では必須の課題であると考えている。

 しかし、このことは、教師だけの問題ではないだろう。子どものなかにもいじりの文化が広がっているのではないか。ある活動を行うときに、そのルールに従わない子どもが排除されるというなら、まだ理解できるが、今のいじめ事件などを見ると、子どもたちは関係を維持することを自己目的化しており、いじりによって、学級の人間関係を維持しているように見える。関係そのものを維持することよりも魅力的な創造的な活動が学校・学級に欠けているのではないかと考えて見ることも必要だ。

3.体罰肯定との関連で

 最近、学内の先生と話をする機会が減っているのだが、私が愛教大に就職したころ、教育原論を担当している先生から、「学生の間に体罰肯定の意見が根強い」という意見をきいた。このことも、教員養成における人権意識の向上と関連しているだろう。
 授業で、教育哲学に関しておよそ体罰とは相反することで卒論を書いて卒業した学生が、現場でバシバシ体罰を行っているということを耳にしたことがある。人権教育などを知識として学んだのでは、教員の骨身にしみこんでいかないということがわかる。体罰がなぜいけないのかを、学生の生き方が問われるような仕方で教育しなければならないのではないかと思う。
 もちろん、大学として、教員養成において全力で「体罰をけっして行わない(体罰を批判する)教員を育てる」ということを宣言し、具体的な教育目標・教育方法のレベルで、それをどうしていくのかを議論していかなければならないことは言うまでもないだろう。

4.追記「不登校は権利である」とホームスクーリングについて

 多田弁護士が「不登校の権利」の話をしたのを承けて、大学生からホームスクーリングの可能性についての問い合わせがあった。このことについても追記しておきたい。
 まず、日本の学校は学力をつけることだけが目的ではない。日本の学校には、企業戦士養成としての学力競争とならんで、国家に忠実・従順な臣民形成としての忠誠競争の機能が担わされている。とりわけ階層別にみれば、下位層には後者が要求されていることは、かつての教育課程審議会会長だった三浦朱門の「できんもんは…」という発言をみてもわかるように明白だ。
 おそらく不登校でホームスクーリングとなる子どもの場合、企業戦士の側になる高受験学力・高コミュニケーションスキルをあまり期待できないだろうから、当然、日の丸・君が代に代表されるような国家への忠誠が求められる。しかし、ホームスクーリングでそれを行うことは困難だろう。だから、政府・文部科学省がホームスクーリングを認める可能性は、予算面はもちろんのこと、学校に担わせている主要な役割からしてもとても低いのではないだろうか。
 フリースクールに通ったことを学校に通ったこととして認可するという措置もあるが、これは政府が恩寵として与えたもの、つまり、国家への敬愛を抱かせるという目的もあるのではないかと思ったり…。

マルティンニーメラーの詩「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」から考える

Twitterで橋下・松井維新の会の朝鮮学校差別に関する議論をしていて、金明秀(@han_org)さんや@motagaoさんと議論になった。その中で、マイノリティへの差別の禁止の理由について少し考えを改めた部分があるので、メモとして残しておきたい。

私のツイートの趣旨は、
①橋下維新は本当に在日朝鮮人朝鮮学校を憎んでいるのかどうかはよくわからなくて、攻撃すれば自分の支持率が上がるターゲットを探して攻撃しているのでいなということ、
②となれば、朝鮮学校をつぶしてしまえば矛先は次のターゲットに向かうだろうから、次にターゲットになるのは誰でもありうるということ、
の二点であった。

これに対して、金さんたちは、ターゲットは恣意的かもしれないが、ランダムではなく、植民地主義反共主義に根ざした歴史があるということ、そしてマイノリティーが排除のターゲットとして何重にも選ばれる傾向があることを指摘して、私の主張に異議を唱えた。

私の主張は、多くの人が知るところのマルティン・ニーメラーの詩「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」や炭鉱のカナリアと同じ論旨となるわけだ。この詩は、橋下氏の動きを見ていれば、現状でも十分に通用する論理構造をもっていることは疑いえない。

詩の原文と和訳は→「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」

しかし、ここには重大な問題がある。絶対に自分に矛先が向かってこないとわかっている状況があると仮定すれば、マイノリティが攻撃されたとしても、それに反対する理由がなくなってしまうからだ。要するに、自分の利益になる/ならないという基準のみで判断すると、弱者が生きようが死のうが関係ないということになってしまうわけだ。

だから、マイノリティが差別されているときには、単なる利害関心の問題ではなく、どんな人の人権が侵されることも許してはならないという倫理性の問題として議論をしなければならない。

だから、議論するときに「いつかあなたも攻撃されるかも知れない」というだけではなく、「あなたは人としてそれを許せるのか」という論点を外してはならない。この議論がレイシストに通用するかどうかわからないが、倫理性の点からレイシストを批判する論理を展開することが必要だろう。

少年犯罪への死刑判決に寄せて

今回の死刑判決に対して、世間の人々はどのような感想を持っているのだろうか。

様々な人がいると思う。まずはじめに、妻と子どもを殺された本村さんの受け止めはどうだったろうか。記事によれば、以下のようだ。

「大変満足しているが、喜びの感情は一切ない。厳粛な気持ちで受け止めないといけない」。うっすら涙を浮かべ、真剣な表情で判決の感想を述べ、「死刑について考え、悩んだ13年間だった」と振り返った。
事件直後は、家族を守れなかった自分を責め、自殺も考えた。「時間は最良の相談相手だった」。怒りの気持ちも年月とともに収まり、冷静に考えられるようになった。

時事通信:「社会正義示された」=死刑考え、悩んだ13年間―「喜びなく、厳粛」・本村洋さん」2012.2.20

被害者として応報感情を持つことはごく自然なことかも知れない。だから「大変満足している」ということについて、他者があれこれ言うべきことではない。
(ただし、何を自然と考えるのかは難しい。殺されたわけではないが、佐賀のバスジャック犯に重傷を負わされた女性自身が、応報感情よりも同情を表していたことを考えてみる必要がある。自然とは、それまでの各人の経験の総体の結果だろう。)

また、本村さんに共感して、死刑判決に「ざまみろ」と考えている人もいるかも知れない。この人たちが、自分の妻や子どもが殺されたことを想像して、そのように言うこともあり得ることだろう。もちろん、本村さんが考えてきた、殺人・死刑・被害者の権利等々、複雑な感情についてはほとんど考えることなく、なんとなく共感しているつもりになっている人が多いのだろうとは思うが。

しかし、私の感覚では、多くの人は、「人を殺したのだから死刑で当然」といった単純な感覚ではないだろうか。彼の犯行後の言動を知っている人のなかには、「いい気味だ」と考えたりしている人も少なからずいるだろう。

この最後の感情について、私は、とても危険だと思う。このような危険思想が重大犯罪の温床になっているのではないかとすら思う。

なぜそう思うのか。それを説明するために、今回の死刑判決に対する日弁連に会長声明に注目してみよう。会長声明には、死刑廃止の国際的趨勢や、国際社会から日本に対する死刑廃止の勧告などについても書かれてあるが、今回は、そこではなく、加害者のに生い立ちについて書かれてあるところだ。

被告人に対する父親からの暴力、母親の自殺などが被告人の精神形成にどのような影響を与えたのか、犯行時の精神的成熟度のレベルはどのようなものであったかを分析し、測る作業が必要であった

"犯行時少年に対する死刑判決に関する会長声明"

ここに見られるように、少年は幼少時から、「まとも」に成長する機会を幾重にも奪われていた。かれは、大人や社会の不作為で、あのように育ったのかもしれない。また、大人や社会に対する根深い不信感から、反省の色を示さなかった(示せなかった)のかもしれない。(名古屋の大高公園アベック殺人事件の少年たちは、社会的に地位の高い人たちに強い敵意を持っていたという話を聞いたことがある。)

たとえば、私が知っている生活指導実践家の教師が、小学校の時とか中学校の時にたった一年でも担任していれば、もしかすればこのような犯罪に手を染めなくても済んだかもしないとすら思う。

親や地域社会や教員などの大人、虐待を防げない社会、親を亡くした悲しみからの立ち直りの責任を本人ひとりに課してしまう社会、これらの問題は問われないのだろうか。私は、不遇な幼少期を過ごした子どもを救えなかった地域や学校や社会にもきわめて重大な責任があると思うのである。彼に判決に「いい気味だ」と思っている大人がいるとしたら、不遇な幼少時を過ごさせた(そして今も多くの子どもに不遇な幼少時を過ごさせている)自分の責任を負わないという点において、重罪であるとすら思う。

そういう意味では、NHKのニュースで、「少年の重大事件、厳罰化の方向」として「立ち直りの可能性よりも事件を起こした責任や結果を重く見る」などと上っ面なな報道がなされることにはとても違和感を感じてしまう。

少年の起こした重大事件で死刑判決が出たとき、我々大人や社会が「慚愧に堪えない」、「忸怩たる思い」との感情を持つようでなければ、社会から重大犯罪はなくなることはないだろう。その意味で、今回の判決が、大人たちに自らの責任を問わせるものになっていない点は、重大な瑕疵だと思う。

判決という行為は、社会を作り出すという面もある。だから、どうすれば重大犯罪がなくなるかを考えて判決を出してもらいたいのだ。多くの人が、彼がなぜ犯罪を犯してしまったのかを考えざるを得ないような判決が必要なのではないだろうか。世間が「偉い」と言われる人たちの、社会や時間に対するリーチが短くなっていることも、とても気になるのである。