そもそも道徳の授業が行われていないことが問題なのか

さて、先日も道徳の教科化についての疑念を呈したところですが、本日は、もう少し違った視点から、道徳の授業の問題を論じてみたいと思います。

1.道徳の授業を行えば道徳性は向上するのか

人生経験もそれほど豊かではなく、他者との交流も不十分である私が見聞きする範囲での判断ではあるが、道徳の授業は、ここ10年くらいは、それ以前に比べれば行われる回数は増えていると思っている。

では、ここ10年で子どもたちの道徳性は向上したのだろうか。おそらく、多くの大人の答えは否であろう。このあたりの問題について下記の本を参照されたい。

日本を滅ぼす教育論議 (講談社現代新書)

日本を滅ぼす教育論議 (講談社現代新書)

 
仮に「近頃の子ども・若者の道徳はなっていない」という判断が正しいとしても、道徳の授業では何の解決にもならないということは、このことひとつをもってして明らかなのではないだろうか。

2.自分達(大人)が子どもの頃はまともだった?

さて、次のようなアンケート結果がある。ここからやや辛辣なことを述べてみたい。

「道徳」の教科化、どう思う?

道徳の授業がきちんと行われれば、子どもたちの道徳が向上すると思っている大人の多くは、現在の子どもたちに比べると、はるかに少ししかまともに道徳の授業を受けていない。だから、彼らは、きっと自分達の道徳がよほどひどいと感じているに違いない。そして「どうしてもっとちゃんと道徳的な人間になるように自分を育ててくれなかったんだ」と嘆いているのではないか。

もし、このアンケート結果が、そういうことを意味しているのだとすれば、大人も捨てたもんじゃないなぁ、と思う。

しかし、実際には違うだろう。「学力低下」論のときの世間の騒ぎ方もそうだったが、学力低下を批判する人達の多くは「近頃の子どもは学力が下がっているらしい」と捕らえているわけで、つまりは「昔は学力が高かった」と言いたい訳である。

しかし、多くの学者が国際学力調査を過去に遡って分析しているとおり、例えばTIMSSなどでは、順位の多少の変動はあるものの、学力はほぼ横ばいで「世界最高水準」というのが、実情である。

つまり、大人たちは、「近頃の子どもや若者は…」と言うことによって、あたかも自分達は優れているのだ、と自他に示すための、努力不要の効率的な手法をとっているに過ぎない。

ついでに言えば、大人の科学的発見に対する興味や、科学的教養について調べた国際比較調査では、日本はブービー賞のあたりで低迷しているのであって、日本の大人の教養は国際的に見てきわめて劣っているということを付け加えておこう。このことは、せっかく子どもの頃に詰め込んで世界トップ水準の学力を身につけていても、無理矢理やらされていたり、受験のためだけに勉強しているので、すぐに剥がれ落ちる学力であったということでもある。

さて、本題に戻れば、「他人を貶めて自分を上に見せようとする」わけだから、道徳的でないことこの上ないわけだが、まあ、ほとんどまともに道徳の授業がされてこなかった大人の判断だから、許してあげるしかないかも知れない。

3.何が原因なのか

でも、私も個人的には、子ども(と大人)は自己チューになっている、と思っている。しかし、原因は道徳教育の不足にあるのではなく、自己チューになってしまう社会の仕組みがあるからだということだ。朝起きてから夜寝るまで、四六時中、社会から「自己チューになりなさい」と教育されているのに、一週間に1回程度、道徳の授業をしたとしても、焼け石に水というものである。社会から「自己チューになれ」と教育されているというとき、さまざまなルートがある。

(1)新自由主義

まず第一に、新自由主義社会である。新自由主義は自己選択、自己決定、自己責任を基本原則とする。つまり、「最後は自分が責任を取らされるのだから、迷惑をかけない限り何をしようが勝手だろう」という論理を認めてしまうことになる。ましてや、格差社会の進行と貧困の増大によって、その責任の取らされ方が「生死を分かつ」ような水準に近づいてくると、「多少の迷惑をかけても、結果が自分に有利になるようにしなければならない」ということになっても不思議ではない。

(2)個人消費主義

電子レンジもない昔の暮らしなら、家族で揃ってご飯を食べないと温かいご飯は食べられなかった。しかし、電子レンジが登場して、いつでも温めて食べられるようになった。それどころか、コンビニの普及によって、家族と一緒に、家族と同じものを食べる必要すら薄くなっている。このように、コンビニの普及は、自分の好きなときに、好きなものを食べるという生活を支えてしまっている。これによってコンビニ会社(店舗ではない!)は、ボロもうけしながら、子ども(と大人)の自己チュー化になんの責任も取らないわけである。

(3)技術の発達

たとえば、自分が若い頃、彼女の家に電話するには、固定電話しかなかったわけだ。彼女の父親や母親が出るかも知れないわけで、敬語を使ったりしないわけにはいかなかった。しかも、非常識な時間に電話するわけにはいかない。ところが、現在は携帯電話がある。好きなときに友だちに直接電話やメールができるわけだ。第三者を介する必要はないし、時間を気にする必要もない。自分の都合を中心にしてコミュニケーションできるわけだ。でこうして携帯電話会社はボロもうけしながら、子ども(と大人)の自己チュー化に何の責任も取らないわけである。

挙げればきりがないわけだが、要するに,大人が子どもたちを金儲けの餌食にしていることによって、子どもたちが自己チュー化している面が多分にあるわけだ。このような状況を放置して、子どもが道徳的に問題だなどと騒いでいる大人の方が問題だ。そういえば、五味太郎が次のような本を出していたが、なかなか鋭いところを突いていると思う。

大人問題 (講談社文庫)

大人問題 (講談社文庫)