国家公務員給与削減に妥協する連合系組合

国家公務員にはスト権がない。その代替措置として、人事院が置かれている。

この人事院が最近、公務員の労働条件を守る方向でなく、政府の下請けのように、率先して労働条件を悪化させる勧告を行ってきた。だから人事院はほとんど代替措置にならなくなってきている。

そのような代替措置すらも無視して、政府が勝手に公務員の給与を下げるなどということがあるとしたら、それは、明らかにルール違反である。

それならそれで、公務員にきちんと団体交渉権を認めてから交渉のテーブルにつくべきだ。

そもそも憲法は、政府が暴走しないように、政府の手足を縛るためにある。だから、憲法に規定されている労働基本権を、政府は守らなければならない立場にあるのだ。政府が、率先して労働基本権を蔑ろにするようなことは、立憲主義国家としてあってはならないことなのだ。

このことは、ことが国家公務員だけの問題ではないことも意味する。このようなことを認めていくと、国家が憲法基本的人権国民主権)を守らなくて良いという風潮を作り出してしまう。民間の労働者は、公務員バッシングに荷担することで、まんまと政府のフリーハンドを認め、ひいては自らの労働権も含めた人権をおろそかにすることになることを自覚した方が良い。

このような憲法の仕組みを考えれば、労働組合は、世間の空気を読むとかではなく、労働者全体の利益を考え、その点をしっかりと主張して行動しなければならない。その点で、今回の連合系の労働組合は失格である。それは、労働者の権利と地位を切り下げていることになるからだ。

ちなみに、これに連動して地方公務員の給与も下げるという話も出てきているが、これも連合系の国家公務員労働組合が妥協したことで弾みがつくかもしれない。連合系組合の罪は重い。

さて、ここまでは、基本的な考え方だが、以下、公務員の給与を削減するとした場合の条件を示したい。

第一に、給与を下げるなら、労働時間を短縮することだ。給与が減るのに仕事が変わらないというのは明らかにおかしい。それを認めれば、仕事に単価などないことになり、いくらでも給与を下げて良いことになる。一定の労働に対して一定の報酬というのが原則のはずだ。

第二に、残業代をきちんと払うべきだ。これは、別に給与が下げられようが下げられまいが、もともとタダ働きをさせてはならないというのは、法律のイロハだ。これまではそれなりの給与があったから残業させられても、「まあガマンするか」と考える人もいたかもしれないが、そこまで給料を下げられても、「はい、そうですか」というワケには行かないだろう。(学校教員などの場合、きちんと残業代を支払えば、毎月10万円ぐらい給料が増えてもおかしくない。)

第三に、公務員の兼業を認めるべきである。国立大学教員は、法人化されており、すでに公務員ではないので、ストでもなんでも打てば良いと思うが、まあ、ストしなくても他大学の非常勤講師をしたり、講演したり、著作を出版するなどで、それなりに副収入を得ることができる。しかし、普通の公務員は、兼業禁止なので、そういうわけにはいかない。たとえば、家のローンを払いながら、子どもを下宿で大学に通わせている場合、公務員の収入ではかなり苦しい。だから、給料を下げられると、生活が破綻する家庭が出てきてもおかしくない。そういう場合、アルバイトで収入を補わなければならないこともあるだろう。

(ちなみに、国立大学も公務員でなくなっても公務員に連動して給与を下げるように言われるので、まずほとんどの国立大学で給料が下がるだろう。そうすると私立大学との給与格差がいっそう開くので、多くの国立大学教員が私立に流出するという懸念も生じるだろう。)


以前、リーマンショックのときに、民間企業のなかには、休日を増やす代わりに、アルバイトを認めたところがあるが、これと同じようにすべきだ。つまり、給料を下げる代わりに労働時間を減らした上で、(1)貧乏でも余暇時間を愉しむ、(2)残業して残業代をきちんともらう、(3)定時で退勤してアルバイトに行く、という選択肢を与えるべきだ。

繰り返すが、単純に給与削減で譲歩する労働組合など、労働組合と呼ぶに値しない。組合員も、組合費を払う意味はない。そんな組合なら組合費の無駄だ。とっととやめた方が良い。