いわれない教師バッシング―なぜ日米で生じるのか

Democracy Now!のサイトで、下記のニュースを見つけた。

今日が公開初日の新作ドキュメンタリー映画American Teacher (『アメリカの教師』)が、苛酷な労働時間と低賃金に生活上の大変な犠牲を強いられながらも自らの愛する職業を続けようと苦闘する4人の教師たちの人生を追っています。この映画は、公立学校の教師たちを納税者が支える手当や長期夏期休暇、強力な身分保証など手厚い恩恵を受けている者たちとして描く批評家たちへの反論となっています。この映画を監督したアカデミー賞受賞者バネッサ・ロスと、この映画の主人公であるニューヨーク市ブルックリン区の公立学校の1年生担任のジェイミー・フィドラーに話を聞きます。

低賃金で献身的に働く公立学校の教師への中傷に反論する新作映画『アメリカの教師』

(英語のニュースで、サブタイトルが付いていないので、英語が聞き取れない人には申し訳ない。これこそ、教職員組合が字幕などをつけてくれると有り難い。さらに言えば、日本の教職員組合は、この映画を日本で上映ないしDVD販売できるように働きかけてほしいものだ。)

アメリカでも、庶民が、教師を妬んで足をひっぱろうとする動きがあるようだ。

昔の日本では、学校は「お上」であり、教師は「偉い人」であったため、教師批判・学校批判をすることができなかった。しかし、社会が変化してそういう世の中になったということだろうか。学校や教師を批判しやすくなったということは、ある意味で学校の風通しが良くなることなので、評価しなければならないのかもしれない。しかし、それは、けっしていわれない妬み・誹りとは違うはずだ。

このような学校や教師に対する妬み・誹りとしての教師批判は、先進国ならどこでも起こっているのだろうか。寡聞にして知らないのだが、少なくとも、私は、ドイツ・フランスでは、それほどこの手の批判を見かけた記憶がない。フィンランドなどは、なりたい職業ナンバーワンが教師であり、教師がそれなりに尊敬されていると聞く。

そう考えると、アメリカと日本は突出しているのかもしれない。では、なぜアメリカと日本で教師バッシングが激しいのだろうか。あくまで推測でしかないが、先進国のなかで貧困率がワン・ツーがアメリカと日本である。このことに注目する必要があるのではないか。そう思ったのは、生活保護率が日本一の大阪で、橋下知事による教師バッシングに人々が容易に飛びついているからだ。

貧困になれば、人の足を引っ張りたくなるというのが、心情なのかもしれない。しかも、どこかの遠い人ではなく、隣に住んでいそうな目に見える人の足のほうが、引っ張り甲斐があるのだろう。苦しんでいる人が目に見えるのは、溜飲を下げるうえで、とても効果的だからだ。どこかの金持ちの足を引っ張っても、効果があったのかどうかわかりにくい。容易に自分と同じような境遇に引きずり下ろせる人のほうが手っ取り早いというのもある。

しかし、かねてから言ってきたことだが、隣人の足を引っ張っても、貧しい人は絶対に救われない。お互いの生活が向上するように手を組まなければならない人同士が足を引っ張り合うことで、得するのは誰かということを、よく考えておく必要があるだろう。少なくとも、このニュースがDemocrary Now!というサイトで取り上げられたことに注意を払う必要がある。


補遺

すくなくとも、アメリカではウォール街で富裕層を批判するデモが始まった。隣人の足を引っ張るのではなく、闘うべき相手を正確に捉えた運動が始まった意味は大きいだろう。日本にも飛び火するのか要注目だ。