国防とは何か―日本国憲法の「国」防力

毎日新聞憲法改正を煽るような編集委員岩見氏の署名コラムを掲載している。

作家の野坂昭如は、憲法改正について、
 <自衛隊国防軍に改める動きがある。名などどうでもいい。日本の何を守ろうとしているのか。小さな島国において軍事で守ることが出来るのか……>(5月21日付「毎日新聞」コラム<七転び八起き>)
 と書いている。国防をどうすればいいのか、何も触れていない。

 <九条の会>のノーベル賞作家、大江健三郎らは、改憲論議が起きるたびに、憲法9条こそ平和の礎と訴えてきた。世界の大江である。9条さえ守れば平和は永続する、と信じる人も多かろう。

 ところで、野坂、大江らは、かつての戦争末期を知り、敗戦体験を持つほぼ同世代の著名な有識者だが、<国を守る>とは何か、を突き詰めて考えたことがあったのだろうか。

(中略)

 いま肝心なことは、国敗れて憲法残る、にならないか、という問題提起にどう答えるかである。憲法改正の論点はいくつもあるが、核心は当然9条改正だ。
 安倍晋三首相らは改正の論拠として、現在の陸海空自衛隊は、国際社会が認めるれっきとした軍隊だが、9条2項は<陸海空の戦力は保持しない>としており、実態と合わない、と主張する。その通りで、誰も反対できない。
 だが、9条擁護論者は、それでも9条の理想主義を掲げ、文言を変えないことこそが平和を実現する道と主張し、世論の一部を形成している。安倍の形式論とは到底かみ合わない。
 安倍はここで、一歩も二歩も議論を深めなければならない。国を守るとは、具体的に何をすることか。守る気概を持つには何が不可欠か。参考までに、私の体験を少しばかり書く−−。

(中略)

 精鋭といわれた関東軍は名ばかりで、非戦闘員を残したまま逃げ散った。ポツダム宣言受諾によって戦争が終結(8月15日)したあとも、満州では非戦闘員の犠牲が続いたのである。

(中略)

 肝に銘じなければならないことは二つに尽きる。第一に、二度と戦争をしてはならないこと。そのためのあらゆる努力をする。9条1項(戦争の放棄)が掲げる通りだ。
 第二に、しかし不幸にして侵略されたり戦争に巻き込まれたりした場合、絶対に負けてはならないこと。敗北は民族の大悲惨である。しかし、戦後約70年、敗戦体験者が日々減り、経済繁栄のなかで戦争の記憶が薄れてきた。
 日本はきわどいところにきている、と私は思う。戦後の日本は、政治も世論、教育も<不戦>の誓いを唱えることばかり熱心だったが、<不敗>の備えを固めるのには関心が乏しかった。なぜか、いずれ触れる機会があるだろうが、とにかく、これまで平和が続いたから、これからも続くに違いない、という信じがたい楽天主義の国になっている。
 独立国として、また<不敗>の備えとして精強な軍隊を持つのは初歩であり、軍事大国とか軍国主義とは無縁のものだ。9条擁護論者はそれに反対している。徹底討論が必要だ。
(後略)

「国敗れて憲法残る」では=岩見隆夫

軍隊は国民を守らない

岩見氏がリアルな体験に基づいて語っているように、関東軍は国民を残して我先に逃走した。沖縄でも庶民を壕(ガマ)から追い出して、軍がガマを使用したことが知られている。

軍隊は基本的に国民を守るわけではない。タイトルの国防というのも、守るのは「国」であって国民ではない。では、国民ではない国とは何か。

戦前は「国体護持」と言われたように、国民が何人死のうが天皇制だけは維持しようとした、ということだろう。しかし、ここでいう天皇制は、戦前であるにもかかわらず象徴にすぎないだろう。それは、明治以降の日本資本主義の発展のなかで急成長してきた資本家と、そこにまとわりついた政治家たちを守ることに他ならなかったのではないだろうか。

そして、現在でも国防といったときに守ろうとしている「国」が、企業の利益であり、直接・間接にそこから利益を受けている政治家たちのことかもしれない、というのはありそうな話である。どうせ最も危険な前線に出ていって戦うことになるのは、どちらかといえば庶民階層出身の自衛隊員(国防軍人)だろうし。

岩見氏の言う国防とは何か

野坂、大江を批判しているが、はたして適切な批判たりえているのか。私の見る限り、岩見氏の言う「国防」の「国」と、野坂、大江が「国防」で考える「国」とが異なるから、岩見氏には突き詰めて考えているように見えないだけなのではないのかと思われる。

岩見氏の結論は、「不戦」は教えられてきたが、「不敗」は教えられてきていないということのようだ。そうだとすれば、第一に、絶対負けないだけの軍事力を持たねばならないことになる。それはどこの国とて同じことだろうから、世界中が軍拡競争に走ることになる。当然、教育や社会保障財政支出している場合ではなくなるだろう。敗戦前の日本のように国家予算の75%が軍事費ということにもなりかねない。軍拡のために国民の暮らしが成り立たなくなっている国で、国防というのは、何を守ることなのだろうか。少なくとも国民の暮らしではなさそうだ。

第二に、「不敗」ということは、負けてはならないということだから、決して降伏してはならない、ということにもなってしまいそうだ。そうなれば、最後の一人まで戦い抜くということになる。つまり、日本人がいなくなるまで戦うということである。この場合も、国防という言葉で守る「国」って何ですか? 少なくとも国民の命でも、日本人という存在でもなさそうだ。

第三に、不敗ということは、他国が負けても構わない、つまり、他国の国民の暮らしや命を奪っても構わないという立場に立つことにならないかということである。実際、現在、自民党憲法改正で考えている国防軍は、日本の領土を守ることよりも、海外に派兵して武力行使することの可能性のほうが遙かに高そうだし。

非暴力不服従の抵抗

私は、国民と言うか市民と言うかは残るとしても、そこに暮らしている庶民の命と暮らしを守ることこそが「国防」の意味するところでなければならないと考えている。決して、日本の企業や政府を守ることではない。軍事的支配は支配の正統性を調達する必要がないので、あまりありそうにもないことだが、万一、日本政府が外国によって乗っ取られても、それで日本に住む庶民の暮らしが、日本政府が統治していたときよりも良くなるのなら、まったく国防は果たされていると思う。

もし、日本に住む庶民の暮らしが悪くなったら、統治機構に対して闘いを挑めば良い。つまり、国防とは、国民と統治機構との闘いなのではないかと思うわけだ。

これは、けっして突飛な考え方ではない。いわゆる抵抗権の問題だ。抵抗権は、古代ギリシアの暴君暗殺論にまでさかのぼると言われるが、現在でも生きている思想であり現実である。たとえば、アメリカ合衆国憲法修正条項第2条では、連邦政府から国民の自由権を守るために義勇兵を組織することを認めている。

そのときにどう戦うかということが問題になる。アメリカで義勇兵が組織されたときには、明らかに軍事衝突になる。シリアの内戦を見れば分かるように、それだと犠牲者が増える。そうすれば、庶民から多数の死者を出すことになるだろう。庶民の暮らしを守るために庶民の命がなくなっては元も子もない。そこで、被害を最小限に食い止めるために何をするかを考えなければならない。その場合の答えは、やはり非暴力なのではないか。庶民の暮らしを守らない支配者と戦うひとつの手がかりは、非暴力不服従運動ではなかろうか。アジア・太平洋戦争では、日本が他国を侵略して行き、アジアで2000万人もの死者を出したわけだが、日本人も300万人が亡くなっている。万一、日本が侵略しなければアジアで2000万人もの人が亡くならずに済んだかもしれない。そして、戦争をせずに日本が侵略されてしまったとしても、非暴力不服従運動をしていたら300万人もの死者を出さなくてすんだかもしれない。

国防教育

以上のことから国防教育を考えると、どんな統治でも、自分たちの命と暮らしと人権を守らない統治者=支配者に対して徹底的に非暴力・不服従で闘うということを教えることになるだろう。

しかし、日本の現状の教育は、統治者・支配者に従順になることを中心に教えているように見える。こんな教育をしていたら、外国に侵略され、支配者が変わったとしても、すんなり適応して新しい支配者に従っていくのではないのだろうか。国防どころではないだろう。

ただ、不適切な統治に抵抗することを教えると、日本の現状の統治は持ちこたえられない可能性が高い。だから、そんなことをするわけはない。いずれにしても、権力者、支配者に恭順を示す教育をしている限り、本当の意味での国防教育なんてできないということだ。

憲法が心に残れば国は敗れていない

最後に、岩見氏のタイトルに関連させて一言。

岩見氏は、「国敗れて憲法残る」というが、国が敗れたらおそらく憲法そのものもすげ替えられるだろう。しかし、憲法の精神が国民に深く浸透していれば、平和憲法は国民の心に残っていることになる。そして、それに依拠して支配者に平和的で不屈の闘いを挑むのだとすれば、実は、国民はまだまだ敗れていないということになるのではないか。