ポスト・フクシマの教育学(4)―フマニスムスに回帰せよ

現在の政治だけでなく文部行政も人間中心でない。
このことは、一つ前の記事子どもの年間被曝許容量の欺瞞」で書いたとおりだ。

これに関連して、以下のMSN産経ニュースの記事を読んで欲しい。

 文部科学省の田村厚雄防災環境対策室長は20日未明、福島県災害対策本部で記者会見し、同省が19日に福島県内の小中学校などで屋外活動を制限する放射線量の暫定基準を「年間20ミリシーベルト(毎時3・8マイクロシーベルト)」に定めた根拠について、「安全と学業継続という社会的便益の両立を考えて判断した」と説明した。
 20ミリシーベルトは、国際放射線防護委員会(ICRP)の基準(年間1〜20シーベルト)のうち最も高く、原発労働者などと同レベルという。
 19日夜の最初の記者会見で、「子供の基準として適切か」「決定の根拠を説明すべきだ」などの質問に対して回答に窮する場面が相次ぎ、未明の再会見となった。

「文科省『学業継続も考慮した』 福島の学校の屋外活動制限」(2011.4.20)

まず、ここで問題になるが、「社会的便益」とは何かということだ。いったい、学業を継続することが社会的便益とはどういうことだろうか?

東電や原発事故を起こしても東電を賛美する日本経団連に、有能な人材を送り出す競争に駆り立てることが社会的便益なのだろうか? そういえば、文部科学省は莫大な予算を使う全国学力テストを時期は検討するものの、今年度も実施するという方針のようだ。

この非常時に、しかも教育学者の多くが「百害あって一利無し」と批判している全国学力テストをやる必要があるのか。つい数年前までやっていなかったんだから、別に今後数年ぐらいやめたってどうってことはない。というか永遠にやめて欲しいんだけど。

だいたい現実のイシューから目をそらしてひたすら点数を追究する全国学力テストのようなものに血道を上げてきたことが、現在の東電や経済産業省の官僚や多くの政治家のような、自分勝手で利権優先で問題解決能力のない人たちを生み出してきたのではなかったか。また、全国学力テストを継続するという判断しかできない文部官僚を生み出してきたのではなかったか。

学業をすることそれ自体は否定されるべきではないが、それが社会的便益と呼ばれるためには、原発や学力テストにしがみつかせる学業ではなく、新しい社会を生み出す力を育てる学業でなければならない。現在行われているような学業を継続することは、社会的便益というよりもむしろ社会的損失であるとさえ言いうる。

あるいは、学業を継続しないとその子どもたちは「ろく」な人間にならず、将来、治安を乱す人になるから、きちんと先生の言うことを聞く子どもに育てなければならない、とでも言うのだろうか。そうやって、政府や保安院などのお上や、東電や御用学者の言うことに従順な「善良な」国民を育成することが社会的便益なのだろうか。すでに「ポスト・フクシマの教育学(2)―生活者の専門性を育てる」で述べたが、知的で主体的に判断できる有能な市民なくして、有能なエリートは育たない。そうだとすれば、お上の言うことを聞く人間を育てるための学校教育であれば、やればやるほど社会的便益に反することになるのではないだろうか。

また、学校に行くこと=社会的便益という主張は、「学校に行くことが正しい」という前提に立っている。現在の不登校問題にあらわれている学校の歪みに対する感性の愚鈍さを告白しているようなものでもあるだろう。



さて、百歩譲って、学校にいくことが社会的便益になるとしても、学業を修めた人が健康に生きて、社会をつくっていくことを前提にしてはじめて成り立つ話ではないのか。

社会的便益という発想の根底には、人々が病気になったり死んだりしても、それでも社会のほうが大切であるという思想がある。要するに庶民は、社会のための捨て駒にすぎないのだと。そうであるなら、そこでいう「社会」とは何かを具体的に明らかにしなければならないが、おそらく理を詰めていけば、そこから出てくるのはせいぜい権力者の地位や名誉や財産程度だろう。

教育はあくまで教育を受けた人が幸せになるために行われなければならない。教育にとってフマニスムスはアルファでありオメガである。