東日本大震災の教訓(その5) 震災からナショナリズムへ(2)

ほとんど書き終わっていたのに、操作ミスでデータが消えてショックなので、ちょっと短くなることをご了承ください。

今日の話のポイントは、東京消防庁ハイパーレスキュー隊に処分をちらつかせて放水作業をさせようとした海江田万里大臣と、それに抗議して、隊員を涙でねぎらった石原慎太郎東京都知事は、それほど違いないのではないか、ということと、自己犠牲の賛美や死者の英雄視は危険だということです。

時事通信の配信によれば、

政府関係者から東京消防庁ハイパーレスキュー隊幹部に対して「速やかにやらなければ処分する」との圧力的発言があった

とのこと。これが海江田万里経済産業大臣の発言らしいということです。

nsm産経ニュースによれば、石原知事は、これに抗議するとともに、

「みなさんの家族や奥さんにすまないと思う。ああ…、もう言葉にできません。本当にありがとうございました」。隊員からの活動報告を受けた石原知事は、涙を隠さず、深々と礼をした。

とのことです。

さて、この石原知事の涙をどう解釈すべきでしょうか。個人の内面は推測するしかないですが、私が思うに、家族の不安に共感して流した涙というよりも、国家という「崇高なもの」のために命を賭して活躍したことにたいする感動の涙、自己犠牲や奉公滅私の精神に対する感動の涙ではないでしょうか。それはmsn産経の記事の次の文からも推測されます。

石原知事は、被曝(ひばく)覚悟の活動を「まさに命がけの国運を左右する戦い。生命を賭して頑張っていただいたおかげで、大惨事になる可能性が軽減された」と称賛。さらに、「このすさんだ日本で、人間の連帯はありがたい、日本人はまだまだすてたもんじゃないということを示してくれた。これをふまえて、これにすがって、この国を立て直さなければいかん」と声を震わせた。

このような発言によって、石原氏は消防庁の隊員や都民からの支持・信頼を勝ち取ったかもしれません。たとえば、同記事では、

活動報告会に参加した隊員の一人は「あの強気の知事が涙を流して礼を言ってくれた。上から物を言うだけの官邸と違って、われわれのことを理解してくれている。だから現場に行けるんだ」と話した。

とあります。

しかし、個人的には、「ちょっと待ってよ」と思います。そもそも、東京都消防庁ハイパーレスキュー隊員にしても自衛隊員にしても、なぜ命を危険にさらさなければならなかったのでしょうか。それは、自民党民主党東京都知事も、危険だと言われていた原発を放置するどころか、推進してきたからではないでしょうか。そう考えると、危険な状態を自らつくりだしておいて、危険な場所に行かなかったら処分すると脅したり(海江田氏)、危険な場所に行ったからといって賛美する(石原氏)というのはいかがなものでしょうか。自らの責任を不問に付しているのではないでしょうか。

いずれにしても、為政者は、いかに危険な状態をつくらないかという自らの責任を棚上げして、若者に特攻するように命令したり、特攻した若者を賛美したのと同じように、危険な場所に行くことを強いたり、危険な場所に行く人たちを賛美することに腐心しています。特攻を賛美することは、結局は特攻しないことを非難することを招き、特攻せざるを得ない状況を作り出します。自衛隊員やハイパーレスキュー隊員は、まず、特攻せざるを得ない状況をつくった為政者に怒るべきなのではないかと思います。

政治家が危険に身をさらすことの是非を議論してよいのは、最善を尽くしてなお生じた危険の場合だけでしょう。

他方、これとは違って、住民を避難させるなかで命を落とした役場の職員や教員の話が美談となってメディアで繰り返し採り上げられています。命を賭けて住民を避難させたというのは、ある種の自己犠牲ですが、人災ではなく天災であるという点、自らが命を賭けているという点では、海江田氏や石原氏とはまったく次元が異なるでしょう。また、死に意義を見いだすことで、遺族や友人たちは愛する者の死を少しでも納得できるかもしれませんし、哀しみを少しでも和らげられるかもしれません。その意味で、死を美談にすることは、親族など係累の人にとっては必要なのことなのかもしれません。

しかし、これらを美談にすることには慎重でなければなりません。まず、命を落としたのは結果論であって、津波があれほど大きなものでなければ、役所の屋上にいれば安全だったかもしれません。もし、あれほどの津波だと分かっていれば、逃げられるギリギリまで仕事をしてから逃げていたかもしれません。死ななくて済む範囲でやるだけのことをやったのだとすれば、誰も非難すべきことではないでしょう。また、それが遺族の願いだったのではないでしょうか。

役場から津波警報を放送しながら津波にのまれた女性職員を「最後まで職務を遂行した」として採り上げたテレビ番組のなかで、その女性職員の母親が「それよりも、生きていてほしかった」という趣旨の発言をしていました。これに対して父親は、「職務だから仕方がなかった」という趣旨の発言をしていました。このあたりの発言の違いにはジェンダーの違いも感じますが、それよりも、死を美談にすることが父親に正直な思いを表現することを憚らせたのではないかと思われて仕方ありません。

死者を英雄視するということは、今後も「公務員や教員は命を失っても仕方ない」といった圧力となります。そうではなくて、今回の事故から学ぶべき教訓は、どうやったら、「住民も公務員も安全に避難できるのか」を考えることではないでしょうか。