東日本大震災の教訓(その4) 震災からナショナリズムへ(1)

災害とナショナリズムについて論じたいのですが、やや長くなるので2日に分けて記載します。今日はその第一回目。メディアの日本賛美を手がかりに考えてみます。

今回の地震に関する報道の特徴として、日本を美化するものがやけに多く感じられました。「日本人は災害でもパニックに陥らず整然としている。」「中国人を助けた。避難所などで掲示が中国語など外国語でも表示されている。」「教師がまず生徒全員を避難させてから最後に避難した。」等々、多くの日本美化物語が蔓延していたのは記憶に新しいところです。

この報道を受けて、日本人は諸外国よりも優れているのだと鼻を高くした人も少なくなかったのではないでしょうか。もちろん、報道されたような事実があったのも確かでしょう。

しかし、海外のメディアが日本の美点を報道をしたのは他国と比べてのことだったのかは疑問です。何かと比較して日本の優位性を報道するというよりは、地震でショックを受けているだろう日本を励まそうとする意図があったのではないかと推測されます。そうだとすれば、むしろ、日本人で有りや無しやという国籍や国境を重視したのではなく、むしろ、国籍・国境を超えて連帯を示したということだと理解できるのではないでしょうか。それなのに日本はエールとして投げられたボールをビーンボールで投げ返してしまったのではないでしょうか。

大災害の中で癒されたいと思うのは人情だと思いますが、このような報道で本当に被災地の人たちが癒されたのでしょうか? 被災地に行っていないので確かなことは言えませんが、このような報道に慰撫されるほど被災地の人たちに余裕はなかったのではないかと思います。そもそも上記のような報道がなされた段階では、テレビやラジオを視聴できる被災者は少数だったのではないでしょうか。もしそうだとすれば、むしろ慰撫された人の大部分は被災地以外のところにいる日本人だったのではないでしょうか。

そう考えると、日本人を称賛する海外メディアの紹介やそれに基づく新聞やテレビのコメントは、メディアによる震災を利用した愛国心教育ではないかと思われてきます。しかし、「日本人は優れている」「日本はすばらしい国だ」と言うことは、言外に「日本以外の国は劣っている」ということを表すことにほかならないわけですから、知らず知らずのうちに他国蔑視、他民族蔑視の考えを持っていくことにもなります。だから、市民を育成しようとしている人は、この種の言説には注意深く接する必要があります。

実際、産経新聞の「正論」のコーナーにある大原康男氏(神道学・国学院大学教授)の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という記事は、この種の日本賛美を手がかりにして、戦前のナショナリズム教育の典範であった教育勅語の復活を願うかのごとき内容になっています。

しかし、徐々に明らかになっていることですが、日本人がみな整然と震災に対処しているわけではありません。大原氏が「正論」のなかで引用した「避難所の被災者が大声で言い争うことなく、秩序よく並び、弱者優先で助け合っている」という中国メディアの記述とは異なり、皮肉にもこれまた産経の記事「避難所生活 ストレスから些細なことでトラブルも」によれば、「配給される食事の量が人よりも少ない」「私は炊き出しなど避難所の仕事をいろいろ手伝っているのに、座っているばかりで何もしない人がいる」などの苦情が寄せらるなど、避難者同士がトラブルになるケースが出ているようです。

そのほかにも、市役所を騙った家庭訪問募金詐欺(三重)、遊ぶ金ほしさにコンビニ等から募金箱を盗む女子高生(神奈川)、街頭募金している高校生を暴行し金を奪う(千葉)等の事件が相次いでいますし、被災地でも、避難所での車上荒らし南三陸町)、被災している信用金庫から4000万円盗難等々、数え切れない事件が起こっています。今後、自宅を離れて避難している人が帰ってきたときにはもっと多くの盗難が明らかになるでしょう。

こうしてみると、日本人のなかに道徳的に優れた人、穏健な人もいれば、不道徳な人もいるということが事実なのです。それは、他国においても同じことでしょう。

かつて関東大震災の時、災禍による憤懣が朝鮮人虐殺という形で「癒された」わけですが、今回は「日本賛美」というナショナリズムによって癒されようとしているのでしょう。癒されること自体は否定されるべきことではありませんし、虐殺しないで癒される方がはるかにましかもしれません。しかし、事実に基づかない愛国心によってナショナリズムが鼓舞されることには警戒が必要でしょう。

こういう災害にかこつけてナショナリズムが強化されていくし、政治家やマスメディアは震災復興のさなかにこそ、ナショナリズムを強化する、ということを覚えておく必要がありそうです。