東日本大震災の教訓(その3) ヒューマン・エラーは仕様

本シリーズの「東日本大震災(その2)」でも書きましたが、今回の福島第一原発での事故は、もちろん天災に端を発してはいますが、人災の側面が非常に強いと言えます。

そのほかにも、人災と言いうる状況は枚挙にいとまがありません。

たとえば、2号機で燃料棒全体が水から露出したとき、ポンプ車の燃料切れに気づかずポンプが停止していたというようなミスもありました。そのことも関係していると思いますが、その後、2号機では原子炉の格納容器につながっているサプレッション・プールのあたりで爆発音がしており、放射性物質が外部に漏れ出す危険性が生じました(実際に漏れ出しているのかどうかについては私はフォローしていません)。これも「燃料を確認さえしておけば」防げた事態かもしれません。

また、事故後の初動において、政府が東京電力天下り東京電力と密接な関係にある経済産業省原子力安全保安院の言い分を鵜呑みにしないで、第三者専門家委員会のような組織による一元的な事故対応・危機管理を行っておけば、事態はここまで重篤化することは無かったと言えるかもしれません。

多くの事故がヒューマン・エラーによってもたらされているということは確かでしょう。

こう見てくると、原発推進派からは「きちんと対応すれば安全だ」というよう声が聞こえてきそうです。実際、日本経団連の米倉会長(住友化学)は、1号機爆発(3月12日)、3号機爆発(3月15日)、2号機サプレッション・プールあたりで爆発音(3月15日)という緊迫した状況の3月16日に「千年に1度の津波に耐えているのは素晴らしいこと。原子力行政はもっと胸を張るべきだ」「原子力行政が曲がり角に来ているとは思っていない」などと発言して、原発推進を確認するような発言を行っています。

もちろん、ヒューマン・エラーは失敗から学んで減らしていくことは可能です。しかし、それには限界があります。そもそも、エラー防止マニュアルをつくってもそれに基づいて行動するのは人間ですから、かならず漏れがあります。大学入試において、二重三重にミスの防止システムをつくっても出題ミスが後を絶たないことを見れば分かると思います。

また、米倉会長の発言に見られるように、人間社会はけっして科学的・合理的な判断のみに基づいて動いているわけではありません。電力を大量消費することで利益を上げている企業は、安全よりも目先の利益のために電力確保を優先するでしょう。米倉会長の発言もそのような立場を代表したものではないでしょうか。

少し海外に目を転じてみましょう。アメリカ軍の国防総省が、米海軍などに対して、福島第一原発から半径およそ80kmの地域への立ち入りを禁止したというニュースを読まれた方も多いと思います。この80kmという範囲は、日本に来て現状を見ながら判断しているアメリ原子力規制委員会の判断を手がかりにしていると言われています。

このアメリ原子力規制委員会の任務は、ウィキペディアによれば、「公衆の健康と安全に対する適切な防護を担保し、一般的な防衛と安全保障を促進し、環境を保護するために、民生部門における原子力副産物、原料、特別核物質の利用を規制すること」とあります。要するに、この委員会は、やみくもに原子力利用を推進するのではなく、原子力利用によってもたらされる危険をいかに回避するのかという抑制的な立場に立っているわけです。

こうして、少しでも危険を防止するための組織をつくっており、それが政策決定に影響力を持っているところを見ると、アメリカでは、日本よりもヒューマンエラーが起こりにくい体制が整えられていると言うことも出来そうです。

しかし、この80km圏立ち入り禁止という決定に対して、アメリカの原発業界である米原子力エネルギー協会は、「オバマ政権が決めた避難勧告の科学的根拠について疑問を抱いている」と指摘し、日本政府が決めている20キロ圏内の住民への避難勧告で十分と思われると批評したいうニュースも入ってきています。

原発で事故があると80km圏は危険だという考えが米国民に伝わると、すでにある原発や、これから建設を計画する原発の周辺住民の概念が「20km圏に住む住民」から、一挙に「80km圏に住む住民」に広がることを恐れての発言でしょう。

問題は、このどちらが影響力を持つのかということです。物事を決定するときに、科学的・合理的な判断だけでなく、原発業界の利益といった利権の問題がからんでくるのが人間社会なのです。さらに、現在のマスメディアがスポンサーからの資金によって成り立っていることを考えれば、マスメディアが、この二つの判断のどちらをより強く報道するのかということも問題になってくるでしょう。アメリカの雰囲気を読んではいませんが、オバマ大統領が、福島原発事故の後でも、原発推進の姿勢を表明していることを見ると、原発業界の圧力は軽視できないのではないでしょうか。

これまでのことから明らかなように、雑念を持たず科学的・合理的に何かを行おうとしたときでもヒューマン・エラーは生じます。ましてや、利権がからんでしまうと、科学的・合理的に判断すら二の次になってしまうのです。つまりヒューマン・エラーを減らすことがそもそも無理だというのが、残念ながら現在までの人間社会の到達点です。そういう意味、ヒューマン・エラーは人間社会の仕様なのです。

「そんなことを言っていたら何もできないではないか」という批判が聞こえてきそうです。そういう場合には、「エラーが生じたときの影響力の大きさで判断するしかない」と答えざるをえません。入試問題のミスが与える影響の深刻さと広さは限定的です。しかし、原発事故の与える影響は深刻すぎるほど深刻です。

まず、人体への影響で言えば、急激なものと緩やかに襲ってくるものとがあるでしょうが、いずれにしても、病気になった人への治療・手当・看病に相当のエネルギーが取られることは必至です。また、病気になった本人や家族の心理的なダメージも相当なものでしょう。

現在、放射能汚染された野菜、牛乳、水などの問題がメディアを賑わしていますが、空気中に放出された放射性物質が雨や雪によって地上に降った場合、その土地から放射線が出続けることになるのではないでしょうか。そうなれば、その土地で農業を営むことも、住むことも出来なくなる恐れがあります。膨大な土地が失われることになるわけです。

しかも、これらの影響の多くは、一時的なものではなく、下手をすると何十年、何百年に及ぶきわめて長期にわたるものです。

私は常々思っているのですが、人類が科学技術を現実社会に適用する際、事故が起こった場合取り返しがつかないとか、自然界にとりわけ重大な影響を及ぼすとかいう可能性がある場合、「疑わしきは罰する」方向で対応しなければならないのではないでしょうか。少しでも重大事態が懸念されることは、研究するのは良いのですが、100%安心と言えるようになるまでは、使わないことが大切でしょう。