ハシズム分析(1)―ハシモトは現実の矛盾が生み出したモンスター

君が代起立強制条例を作った大阪の橋下府知事と大阪維新の会。彼らの意識と行動を分析しながら、その支持率の高さも含めた日本の病理を、何回かにわたって明らかにしてみたい。初回は、批判の基本的構えについて論じてみたい。

以下、橋下徹の幼児的万能感に基づく言動とそれへの熱狂的支持の傾向を、一部ですでに用いられている「ハシズム」という用語を用いて話を進めていくこととする。

ただし、あくまでハシモトは、彼を支持する人々の写し絵に過ぎないことも忘れてはならない。このことを考えるに、マルクスの「フォイエルバッハにかんするテーゼ」が参考になる。テーゼ4の冒頭には、次のように書かれている。

フォイエルバッハは宗教的自己疎外、すなわち宗教的な、表象された世界と現実的世界への世界の二重化、の事実から出発する。彼の仕事は宗教的世界をそれの世俗的基礎へ解消するところにある。(『全集』大月書店 3巻、593ページ)

これに従えば、ハシズム的な表象(representation)の世界は、現実的世界にその世俗的基礎を持ち、そこからのみ説明されるということになる。

けっして、ハシモトという超越的な存在が偶然に表れて、人々を魅惑してしまったわけではない、ということに留意する必要がある。別にあの橋下徹が存在しなかったとしても、現実のなかに世俗的基礎がある限り、第二、第三のハシモトが祭り上げらるだけの話だ。言い換えれば、ハシモト的なるものを代表(representative)として祭り上げてしまう人々があって、ハシモトが現象しているということだ。人々の情念がハシモトに投影されていると言い換えても良いかもしれない。

ハシモトは現代の人々の情念が作りだしたモンスターなのだ。だから、ハシモト問題への批判は、ハシモト一人を批判すれば済む、という話ではない。それは必ず、ハシモトを生み出している現代の人間やそのような人間を生み出す社会への批判となる。

ここで再びマルクスに立ち返ろう。先の引用に続いて、マルクスは次のようにいう。

彼(フォイエルバッハ―引用者)は、この仕事を遂行したあとにまだしなければならなぬ主要な仕事が残っているのを見落としている。すなわち、世俗的基礎がそれ自身から離脱して、雲の中に一つの自律的な王国を自身のためにしつらえるという事実は、まさにこの世俗的基礎の自己滅裂的状態と自己矛盾からのみ明らかにされるべきである。それゆえにこの世俗的基礎そのものが、まず第一に矛盾したものとして理解され、次にこの矛盾の除去によって実践的に変革されなければならない。(同上)

ハシモトが全能の神のごとく祭り上げられなければならなかったという事実は、現実社会が矛盾に満ちていることを示している。具体的に言えば、圧倒的多数の人々はとても弱い位置に置かれて自信を喪失し、不能・無能状態にさせられている。他方、人々は、弱肉強食の社会に放り出され、強くならなければならないというメッセージを送られ続け、全能になりたいという感情をかき立てられている。

このような矛盾のなかで、人々が自らの全能願望をハシモトに投影して祭り上げているのだ。

だから、ハシモトを批判しようとすれば、それを生み出している矛盾した社会を変革することで、現実社会のなかで人々の現実の不能・無能状態と全能願望の矛盾を解消しなければならないことになる。この矛盾の解消を通してはじめて、モンスターを必要としてない地上での民主的な政治が実現できるのだ。