国際感覚の欠如した大阪府―天下の愚法「君が代起立条例」可決

先日、憲法における基本的人権と公務員の地位に関する視点から、大阪橋下府知事と大阪維新の会の愚行を批判しておいた。

本日は、日本国憲法だけでなく、世界の到達点から見ていかに時代遅れのものであるかを明らかにしておきたい。

ユネスコ(国連教育科学文化機関)では、すでに50年近く前の1966年に「教員の地位に関する勧告」(以下「勧告」)というものが採択されている。

この「勧告」の「指導的諸原則」の項目の冒頭には、

教育は、その最初の学年から、人権および基本的自由に対する深い尊敬をうえつけることを目的とすると同時に、人間個性の全面的発達および共同社会の精神的、道徳的、社会的、文化的ならびに経済的な発展を目的とするものでなければならない。これらの諸価値の範囲の中で最も重要なものは、教育が平和の為に貢献をすること、およびすべての国民の間の、そして人種的、宗教的集団相互の間の理解と寛容と友情に対して貢献することである。

と書かれてある。

橋下氏や維新の会の政策は、「人権・基本的自由に対する深い尊敬」に真っ向から挑戦するものであるし、「寛容」に貢献しないことも明白だ。むしろ、ユネスコがこの「勧告」によって改善を迫ろうとしている当時の非民主国家・独裁国家の教育に近いとさえ言いうるのではないだろうか。

さらに、「勧告」では、そのような原則を実現するための「教育目的と教育政策」の項目の冒頭で、

それぞれの国で必要に応じて、人的その他のあらゆる資源を利用して「指導的諸原則」に合致した包括的な教育政策を作成すべく適切な措置がとられなければならない。その場合、権限ある当局は以下の諸原則および諸目的が教員に与える影響を考慮しなければならない

(a)子供ができるだけ最も完全な教育の機会を与えられることは、すべての子供の基本的権利である。特別な教育的取扱いを必要とする子どもについては、適正な注意が払われなければならない。

(b)あらゆる便宜は、性、人種、皮膚の色、宗教、政治的見解国籍又は門地もしくは経済的条件のゆえに差別されることなくすべての人々が教育を受ける権利を享受しうるように、平等に利用しうるものであるべきである。

と述べられている。

まず、「『指導的諸原則』に合致した包括的な教育政策を作成すべく適切な措置がとられなければならない」という文面に違反することを確認しておきたい。

さらに、「権限ある当局」(この場合大阪府知事および大阪府議会)が考慮しなければならないこととして、(b)の項目が教員に与える影響を挙げていることにも注目しなければならない。

すなわち、子どもたちがどのような政治的見解を持っていようとも平等に教育にアクセスできなければならないという原則があることになる。したがって、子どもたちのなかの異なる政治的見解のうちの一方のみがストレス無く教育を受けられ、他方の子どもたちがストレスを受けてしまうような状況を、教師は避けなければならないということになる。ついでに、最近、多国籍の子どもが学校に在籍している場合も多いので、そういう点でも平等性を確保しなければならない。

そのことを「権限ある当局」は考慮しなければならないということになっている。

橋下知事と維新の会がやっていることは、この全く逆のこと。

「勧告」の「身分保障」の項目では

教職における雇用の安定と身分保障は、教員の利益にとって不可欠であることはいうまでもなく、教育の利益のためにも不可欠なものであり、たとえ学校制度、または、学校内の組織に変更がある場合でも、あくまでも保護されるべきである。
教員は、その専門職としての身分またはキャリアに影響する専断的行為から十分に保護されなければならない

と述べられている。

ちなみに、専門職というのは「勧告」では、

教育の仕事は専門職とみなされるべきである。この職業は厳しい、継続的な研究を経て獲得され、維持される専門的知識および特別な技術を教員に要求する公共的業務の一種である。また、責任をもたされた生徒の教育および福祉に対して、個人的および共同の責任感を要求するものである。

とあるように、教育学研究と教師の現職研究の成果として考えられているのであって、政治家が勝手に教員の果たすべき役割を決めてはならないということを意味している。

だから、教師の地位や身分は教育の条理にしたがうのであって、「専断的行為」から保護されるべきだとされているのだ。橋下知事と維新の会は、まさにここで禁じられていることを堂々とやっていることになる。

最後にだめ押しで、「勧告」の「教員の責任と権利」の項目を見ておきたい。

教育職は専門職としての職務の遂行にあたって学問上の自由を享受すべきである。教員は生徒に最も適した教材および方法を判断するための格別の資格を認められたものであるから、承認された計画の枠内で、教育当局の援助を受けて教材の選択と採用、教科書の選択、教育方法の採用などについて不可欠な役割を与えられるべきである。
(中略)
一切の視学、あるいは監督制度は、教員がその専門職としての任務を果たすのを励まし、援助するように計画されるものでなければならず、教員の自由、創造性、責任感をそこなうようなものであってはならない

つまり、学問上の自由の視点からすると、国旗・国歌が歴史的に果たした役割をどう考えるのかというのも、学問的見地から捉えるべきだということになる。そして、監督制度(行政)は、教員の自由をそこなってはならないということになっているのだ。


橋下氏は、国際的に活躍できる人を育成すると言っている。しかし、それが英語教育に偏重した皮相なものであり、真の国際人の養成になっていないことも以前のブログで紹介しておいたとおりだ。

ユネスコの「勧告」を見ればわかるように、教育面での国際化に関しても、橋下氏本人がすでに50年近く前の世界の水準から取り残されているのだから救いようがない。大阪府の教育の国際化は、橋下氏に国際感覚を磨いてもらうところから始めなければならないのだとすれば、先の長い話だなぁ。