ポスト・フクシマの教育学(2)―生活者の専門性を育てる

内田樹さんが、「阪神・淡路大震災との違いは「人災」であること」(中央公論2011年5月号)で、今回の原発事故に関連して、職業の特性について語っている。それを整理するとおよそ次のようになるだろう。

政治家

  • 原子力開発技術がある種の「外交カード」たりうるからである。日本が潜在的に核開発技術を持っているということは国際社会におけるある種の威信として使える。
  • それ(いったんクラッシュしたらすさまじい損害をもたらすテクノロジー原発―引用者)を外交カードに使おうとする政治家
  • 政治家個人(略)の知性や倫理性とは関係がない。職業上の必然なのである。

ビジネスマン

  • 安全性基準を思い切って甘めに設定すれば、火力、水力、太陽光、風力といった代替エネルギーに比べて、原発は圧倒的にコストが安い。
  • それ(いったんクラッシュしたらすさまじい損害をもたらすテクノロジー原発―引用者)で金儲けをしようとする
  • ビジネスマン個人の知性や倫理性とは関係がない。職業上の必然なのである。

原子力の専門家

  • 原発の専門家」ですと名乗ってメディアに登場してきた人々のほとんどは「原発が止まると失業する人たち」だった。そのような人たちから原発の安全性について価値中立的な知見が語られることを期待すべきではなかったのだ。

企業エリート・エリート官僚

  • 日本のエリートたちは「正解」がわからない段階で、自己責任・自己判断で「今できるベスト」を選択することを嫌う。これは受験エリートの通弊である。彼らは「正解」を書くことについては集中的な訓練を受けている。それゆえ、誤答を恐れるあまり、正解がわからない時は、「上位者」が正解を指示してくれるまで「じっとフリーズして待つ」という習慣が骨身にしみついている。彼らは決断に際して「上位者の保証」か「エビデンス(論拠)」を求める。自分の下した決断の正しさを「自分の外部」に求めるのである。
  • だから、危機的状況にエリートは対応できない。もともとそのような事態に備えて「須要の人材」として育成されたものではないから、できなくて当たり前なのである。

内田さんは、これらの性質はそれぞれその職業の専門性としてむしろ承認しつつ、原発の管理に関しては、以下のように、価値中立的な専門家によって運営しなければならないという。

大気や森林や、水や食べものや、裁きや癒やし学び(「社会的共通資本」―引用者補足)は「生身の人間が集団として生き延びる」ために必須のものである。それは、フェアで合理的な管理システムのもとに、価値中立的な立場を貫く専門家によって運営されていなければならない。

また、原発事故のリスク対応については、自己責任で決断を下せる胆力のある人間が当たるべきだとする。

「そういうことができる」人間をシステム内の要所要所に配備しておくことが必要なのである。「胆力のある人間」と言ってもよい。資源も情報も手立ても時間も限られた状況下で、自己責任でむずかしい決断を下すことのできる人間である。


以上が、内田さんの専門性議論の雑ぱくなまとめだが、はてさて、現実論として、そのような価値中立的な専門家と胆力のある人を、誰がどういう権限で配置し任命しうるのだろうか。権力(と金のために票)が欲しい人と、金が欲しい人が世の中を動かしているのだとすれば、そんな権力の邪魔、金儲けの邪魔になる人は排除しようとするのが必然ではないのだろうか。

そう考えると、政治家でもビジネスマンでもなく、むしろ彼らを選出したり、監視したりできる有能な主権者としての生活者の専門性こそが問われなければならないのではないだろうか。社会的共通資本を守れる制度を要求し、それを守れる政治家を選出するという専門性だ。今回の地方選挙の結果は、このような生活者の専門性に課題があることを鮮明にした。

私がかかわっている民間教育研究団体は、リーダーとフォロアーの指導の重要性を指摘しているが、そこではフォロアーの育ちがリーダーの質を高めることが指摘されている。少し考えればわかることだが、庶民が賢ければ、いい加減な政治家や自己中心的な政治家は選挙ですぐに落とされ、質の高い政治家だけが生き残る。だから、いかにエリートを育てるかではなく、いかにフォロアーを育てるかがひとつの鍵を握っていると言えよう。この際、将来のエリートと将来の生活者がともに生活することが大切だ。なぜなら、自己中心的なエリートを見抜き、真のエリートを選び出す力の獲得は、生活のなかでそれぞれの立ち居振る舞いを観察すること抜きには不可能だからだ。生活者予備軍の鋭いまなざしにさらされている自己中心的なエリート予備軍は、自らを変革させない限り、支持されないことを経験し、自己中心性から脱却するかもしれない。

こうしてみると、正解を書くことの集中的訓練がなされるような教育はダメだということになる。なぜなら、正解を書くことが正しい、よりよく正解が書けた人が優秀な人、という価値観を生み出すことになるからだ。こんな場所では、生活者の専門性を育てることは不可能だろう。では、正解を書くことを訓練しない教育では、エリートは育たないのだろうか。そんなことはないのではないか、というのがさきのリーダーとフォロアーの関係の議論だろう。

さて、問題は、権力者も金力者も、国民が自分たちの都合のいいように動くよう、教育を支配しようとすることだ。ここで議論が堂々巡りになる。金と権力が欲しい人が、価値中立的専門家を排除しようとするように、生活者の専門性を育てる教育を主張する人を排除することになるだろうから。エリートは自分の努力や成長なしに支配できたり金儲けできたりするほうがよいに決まっているもんね。

こう考えると、社会的共通資本を守るためには、制度的に権力から独立させることが死活的に重要となってくる。かつて教育委員会は公選制で政治から独立していたが、現在はむしろ権力寄りとなっている。裁判所は形式的には行政から独立していることになっているが、人事権などをめぐって独立できていない。権力から独立した制度とその職員をどうやって選出し、どうやって経済的に支えていくのかを考えていくことが社会設計上重要で、これがまた生活者の専門性を形成するときの学習内容に一つにもなるだろう。でも、支配勢力はそのような教育をできるだけしないようにしたがる。無限ループだ。

問題は、このループをどうやって脱するかにある。結局は、問題に気づいた個々の人々が、それぞれ実践を始めていくしかないのだろう。これが多数派になるかどうかも個々の人々の実践次第なのではないか。もちろん、それをうまく広げるツール(TwitterSNS等)の活用のありかたも含めてだが、これはまた別に機会に譲りたい。

それにしても、1947年に制定された教育基本法は、そういう意味ではすぐれた法律だった。権力者によって実質的には骨抜きにされてきたが、その内容には「教師は、政府や教育委員会にではなくて、直接国民に責任を負うんだよ」とか「政府は教育には口は出さずに金を出せ」というものがあった。2006年に改悪されてしまったが、本当にすばらしい法律だったんだなと再認識させられる。


4月23日追記
ハーバードのサンデル教授が、読売のインタビューに原発論議をすべきだと応えている。その中の一節が、リーダーとフォロアーの関係にかかわるので引用しておく。

議論のリード役については、「まず政治家だが、政治家はいい仕事をしていない。市民がそれを要求していないからだ。メディアの責任は大きいが、娯楽的な『どなり合い』ではなく、真剣に討論する場を提供すべきだ」と述べた。

「サンデル教授『原発議論は民主主義の試金石』」