平川克美「非常時の思想」を読む

立教大学平川克美氏がブログで「非常時の思想」を書いている。

「米や水やガソリンの買い占め」に批判的なまなざしをもっていた私は、これを読んで頭をガツンをやられた気がした。しかし、じっくり考えるとちょっとひっかかるところもある。

確かに、一般市民の買い占めを非難するまなざしには、「欲しがりません勝つまでは」といった戦中のスローガンを彷彿とさせるものがあり、我々自身が権力者を内側に取り込んでいるか、全体主義に陥ってるというか、という面を孕んでいることは否めないだろう。平川氏は言う、

「前の戦争でおれたちが学んだことは、小市民が法の範囲の中で、利己的な行動を起こせるような社会こそが健全な社会なのだということだったはずである。」

法律の範囲内で、我が子のミルクのためにミネラルウォーターを普段より多めに買うことに「買い占め」という言葉を使うことはオーバーであり―言うとすれば「買いだめ」だろう―、それらの行動は何ら法に反しないというのはその通りだろう。法律に反しないことまで権力によって制限される社会は民主主義の対極にある社会だ。そのような社会は、一方的に外からやってくるのではなく、そのような社会を構成してしまうメンタリティによって支えられる。だから、そのようなメンタリティを持っていないかをつねに自問自答することは大切だ。

他方で、誰かに制限されることなく、また、内側に権力者を棲まわせることなく、「買いだめ」に走らない市民がいることも確かである。その動機はさまざまだろう。ジタバタしても始まらないという悠然とした人もいただろうし、被災者や首都圏の乳幼児の現在と未来に想像力を働かせた人もいただろう。そういう、我々市民の教養といってよいのか、知性といっていいのか、モラルと言って良いのかは分からないが、権力者とか全体主義とかとは無縁な地点から、ユマニテとして「買い占め」に走らないということもあるのではないか。

小市民が利己的な行動を起こせるということと、市民が他者に左右されず自らの思想と良心に基づいて行動するということには、連続性もあるが、違いもあるのではないか。

だから、買い占めを非難してしまう自分を戒めつつも、市民が育っていないということに危機感を覚えることは必要なのではないだろうか。もちろん、道徳の名の下に人々を統制しようとする権力には十分すぎるほど警戒しつつ。