非常時の学校教育

原発事故直後から私も関係している民間教育研究団体の学校教師たちが、とくに中学校を中心に、原発問題の学習に取り組んでいる。そこで今回、非常時に教育はどうあるべきかということについて考えたい。

まず、次の記事から始めたい。読売onlineでは、「新学期の教科書、67万冊が津波被害で使えない」として、教科書の心配をしている。

教科書が不要だとは言わないが、教科書では学べないきわめて重要な教材が、まさに目の前に突きつけられているのではないか。科学を学ぶことの意味を否定しないが、いま整然と教科書通りに学習することが、本当に優先されるべきなのか。金子勝さんがTwitter(@masru_kaneko)で盛んに発言しているが、原発がコスト(作業員の「消費」も含めて)に見合うのか、新時代のエネルギーと地域設計と生活スタイルはどうあるべきなのか。今回の地震及び震災から学ぶべきことは山ほどある。また、深く考えるための素材となる記事・ブログも、学び手の考えようとする意欲や姿勢もこれ以上ないほど高い水準にある。

基礎・基本がないと学べないという人もいるだろう。しかし本当にそうだろうか。作家の高橋源一郎さんが「地震発生以来、ぼくが読んだもっとも知的な文章」として紹介していたのだが、中学2年生の自称「B級アイドル」藤波心さんは、ブログにおいて「批判覚悟で」と題して、芸能界で発言するリスクを冒してまでも、今回の問題を深く考え、発信している。

今回原発問題を実践した中学校教師が「(以前から原発問題に意識的に取り組んできた)教師よりもよく知っている生徒がいる」「考えさせるために出した問いに中学生が即答してしまって時間をもてあました」というぐらいに中学生は猛烈に情報を集め、猛烈に考えている。これらの状況を契機として彼らが生きる未来をどう作るべきなのかを、エネルギー政策やライフスタイルと結びつけて学ぶのに、今ほど適した時期はないのではないか。

教科書がないのは被災地で、それ以外の場所に教科書はあるとしても、震災と原発事故がまるで別世界のできごとのように粛々と教科書を教える学校があるとすれば、きわめて異様な光景ではないだろうか。もともと全国学力テストには反対だが、それを今年度も実施するという文部科学省の感覚は、日本の教育の歪みを象徴しているのではないか。

また、被災地にあっては、被災地での協働や犯罪の問題、孤児の生き方とその支援制度の問題、愛する者の喪失への向き合い方など、否が応でも突きつけられる問題もある。これらは、子どもの個々人に任せて対処させるには、あまりに重い問題である。だからこそ、それらを仲間とともに学びの対象にもしながら、仲間とともに生き方を探っていかなければならないのではないか。