東日本大震災の教訓(その2) 批判に耳を傾ける

本日は、批判に耳を傾けることの重要性について書いてみましょう。

今回の原発事故に関する情報収集をするなかで、私と同様に、少なからぬ人が、
日本共産党の議員による国会質問に関する記事
「チリ地震が警鐘 原発冷却水確保できぬ恐れ 対策求める地元住民」(2010.3.1)(国会質問自体は2006年)
および、日本共産党福島県の組織が東京電力に宛てた申し入れ
「福島原発10基の耐震安全性の総点検等を求める申し入れ」(2007.7.24)
を発見したのではないでしょうか。

これらの記事は、共通して、東京電力福島原発が、今回のような「想定外」な地震でなくても、5m程度の津波で今回のような事態に至る危険性を指摘し、改善するように申し入れたものでした。東京電力のような巨大企業にとって、共産党は批判的な勢力なので、忌々しい存在でしょう。だから、「そんなやつらの言うことなんか無視しておけ」という対応になったのではないでしょうか。しかし、今となっては、「あのときの批判に耳を傾けてさえいれば」と後悔していることでしょう。結果論ではありますが、批判にもきちんと耳を傾ける姿勢があれば、今回の大災害を免れるか、少なくとも被害を最小限にとどめることができたことが推測されます。

また、自民党公明党民主党にとって共産党は政敵です。共産党の批判を受け入れることは敵の正しさを認めたことになるし、敵がポイントを稼ぐことになるから、聞きたくなかったのでしょう。(もちろん、自民党にしても民主党にしても、原発推進のうえに、東京電力日本経団連の重鎮ですから、そこに強く指導するなどはできなかったでしょう。このあたりは、大企業にモノが言える政党と言えない政党という、政党の存立根拠にまで及ぶ話かもしれません。)

かつて藤田省三は、

全体主義の時代経験 (藤田省三著作集 6)

全体主義の時代経験 (藤田省三著作集 6)

において、現代の時代状況を捉えて「安楽の全体主義」と名付けました。現代の人々は、耳障りの良いイエスマンの声しか聞かず、「思考停止」してしまっている傾向が強まっているように思います。このような状況の危険性をいち早く指摘し、「考えること」の重要性を強く訴えたのが藤田省三でした。

考えることというのは、自己内対話です。自己内対話は、批判を自分の中に取り込み、元からあった自分の考えと、自分に突きつけられた批判との折り合いをどう付けるのかを徹底的に追究することでしょう。そうだとすれば、「考える」ということは批判に耳を傾けるということでもあるでしょう。

ネットの掲示板には、今回の事故に関しても、相変わらず自分に都合の良い声しか聞かない「モノローグ」に満ちあふれています。
また、テレビニュース等に登場している原子力工学等の教授たちのほとんどが、原発推進派であることと無関係ではないでしょうが、原発反対派の声に耳を傾けず「安全だと思いたい」という自分の声しか聞いていないように思われます。
原発反対派の研究者は、その研究内容の水準が低いとか、理論が間違っているとかいう理由ではなく、原発推進に役立たないということで、毎年つぎ込まれる国の莫大な原子力開発予算を獲得できませんし、その結果出世も困難となります。出世できないというのは、なかなか教授や准教授になれず、万年助手(いまは助教といいます)という憂き目を見ることです。批判派の研究者は、莫大な資金を獲得して華々しく研究を進める推進派の研究者と比べれば、見劣りするように見えてしまうかもしれません。そういう状況もあり、学会でも少数派にならざるを得ません。
こうして、推進派の研究者たちが、ますます原発に批判的な研究者の異見に耳を傾けることなく、無視し、排除する構造ができあがっていくのです。

また、東電は、こうした推進派の研究者の肯定的な意見ばかり聞いていたのでしょう。

今回の事故は、このようなモノローグ社会がもたらしたひとつの帰結だと思われて仕方ありません。人類社会が一歩でも前に進んで、強い社会となるためには、この安楽の全体主義の克服が不可欠なのだと思いました。