学校におけるルールについての考え方

先日、大学の授業で話したのだが、学校で、どこまでルールを設けるべきかということを再考すべき時期なのではないだろうか。これに関して、授業でおこなったコメントを転載しておく。

1 問題行動はルールによって作られる

 ある行動が問題行動かどうかというのは、ルールに違反したかどうかで測っているのではないだろうか。そうだとすれば、何をルールに盛り込むのか、どこにルールの線を引くのかで、ある行動が問題行動であったり、なかったりする。そして、ルールを設けた以上、必ずその指導をしなければならなくなる。
 学校にはルールが過剰であるように思われる。ルールが過剰であれば、違反も増えるし、それに対する指導も増える。教師がルールに追い回されることになるのではないか。
 たとえば、頭髪や服装について、ルールを決めなければ、「違反はない」ことになる。そうなれば、指導も不要になる。その分、授業や学級づくりの本質的な指導に集中できるのではないかと思ってしまう。
 過剰なルールはさらなる問題を生んでしまう。たとえば、頭髪や服装のルールに違反することと、暴言・暴力はダメというルールに違反することが、たくさんあるルールに違反することとして、子どもたちに等価に受け取られる恐れがある。つまり、異装をすることと、暴力を振るうことが同じレベルでうけとめられてしまうということだ。異装をしてしまった子からすれば、暴力を振るうことも、さして問題だとは思われなくなる。だから、学校のルールは、「これだけは絶対に許せない」というものに限定していくべきだろう。
 さらに言うならば、教師がこまかく管理しようとするからこそ、子どもたちは教師の支配を乗り越えようとして違反するのではないか。

2 問題行動は個人の問題か集団の問題か

 他の子どもの学習の邪魔になるから出席停止にすれば良いという話がある。強面の大人やまじめな学生ほど、そう考える傾向があるように思われる。しかし、このことは、子どもたちに、授業をつくるのは教師であり、自分たちではないということを教えていることになる。このまま大人になれば、自分たちの身近な問題を自分たちで解決しないで、行政の力に頼って解決してもらうような、本当の意味での「生きる力」のない大人になってしまう。
 授業は、みんなで共に学ぶものだということを教えなくて良いのだろうか。勉強していない(educated でない)大人が増えると、たとえば、将来、失業者が増加したり、犯罪が増加するなどのリスクが生じることはないだろうか。もしそうなれば、自分たちが生きる将来の社会は住みにくい社会になるだろう。だから、学ばない同輩を放置することは、自分にとってマイナスだということを考えさせなければならないのではないか。
 また、学びそのものの本質に立ち戻ってみても、出席停止はいただけない。学びとは、自分とは違う経験をしている人、その人の見方、考え方を聞いてこそ、本当に深まるものだ。だから、授業中にいなくて良い人なんていないはずだ。問題は、意見が聞き合える授業ではなく、正解を伝え、暗記させる授業になっていることにあるのではないだろうか。これを解決すれば、授業を妨害したり、真剣に参加しない生徒に対して、教師だけではなく、クラスの仲間が一緒に勉強しようと言えるようになっていくはずだ。そういう授業と学級をつくっていかなければならない。

3 ルールは誰がつくる

 上記のことと関連して、ルールを教師が一方的につくって守らせるから、子どもたちは逸脱しようとするし、周りの子どもは、ルール違反を見てみないふりをし、教師ひとりが違反者を追いかけ回さなくてはならなくなるのではないだろうか。
 子どもたちでルールを決めれば良いのではないか。子どもたちが、どこまでなら守れるか考えながらルールを決めれば、自分たちで決めたルールだから自ら守ろうとするし、友だちにも守らせようとするのではないか。