ハシズム分析(4)―富の再集中をめざすネオリベとネオコン連合

ネオリベラリズムの歴史と本質については、デビッド・ハーヴェイの分析が参考になる。

新自由主義―その歴史的展開と現在

新自由主義―その歴史的展開と現在

思い切って要約すれば、ネオリベラリズムは、資本主義の初期に富と権力を集中した資本家が、福祉国家成立以降に失った富の集中を再び取り戻すための経済的・政治的な運動といえよう。

初期のレッセ・フェール的資本主義では、富と権力が一部の人に急速に集中していった。しかし、そのことは、裏を返せば、圧倒的多数の人民を無残な生活に追いやることでもあった。圧倒的多数の庶民の生活が過酷になればなるほど、人権思想や民衆運動が高まっていく。このような人権思想と民衆運動の1つのピークが社会主義運動だろう。(だから社会主義は資本主義の落とし子でもあった。)

民衆による社会主義への傾倒に危機感を募らせた資本家たちは、それに対抗するために、仕方なく富を再配分する福祉国家を実現しなければならなくなった。(これは、権力者が譲歩しつつも自らの利益を確保するために行ったのだということを忘れてはならない。権力者が進んで民衆のために何かをやるなどと考えるのは見当違いだ。)

富の再配分を行うということは、一部の特権階級にとってみれば、これまで自分たちが手にしていた富が減少することを意味するので、彼らにとって福祉国家は耐え難いものだったろう。

そうこうするうちに、競争相手である社会主義国を経済封鎖等で弱体化させることに成功し、また社会主義国が民主主義の遅れた国で実現したということもあって自滅してくれたおかげで、資本主義は社会主義国と対抗する必要が(少なくとも表面上は)なくなった。

これまで渋々、福祉や労働者の賃金として富を再配分していた金持ちにとって、社会主義の自滅は、再び富を自分たちに集中する絶好のチャンスであった。それを進めるための理論的な道具立てが新自由主義ネオリベラリズム)である。一握りの金持ちは、この考え方を国民に浸透させるによって、所得の再分配をできるかぎり撤廃しようとするのだ。

そこで、このような考え方に利用できる経済学者、哲学者、政治学者を持ち上げることをはじめる。彼らははなから経済学にも、哲学にも、政治学にも興味はない。自分たちの富の集中に都合さえよければ、その学者の論理全体などはどうでもよい。片言隻句でも利用できる物は何でも利用する。

しかし、学者の堅い話を国民に浸透させるのは難しい。それらを国民にわかりやすい形で伝えてくれるメッセンジャーが必要だ。そのようなメッセンジャーとして小泉元首相や、竹中平蔵や、池田N夫のようなタレントが必要になるわけだ(ちょうど原子力発電の安全神話を振りまくために、ビートたけしや勝間勝代などを利用したように)。これらの人たちは、一握りの金持ちに富を集中させるために汗を流して、その報酬としてなんらかのお裾分けに預かというわけだ。

しかし、考えてみれば、一部の人に富が集中するということは、圧倒的多数の人たちは貧困に陥ることを意味する。実際、サッチャリズムレーガノミクスによって新自由主義をいち早く導入したアメリカやイギリスでは貧困の拡大が問題になってきたし、現在の日本は貧困率では先進国中アメリカについで第2位という不名誉な地位に甘んじているとおりだ。

そうなると日本では新自由主義は支持されなくなるおそれがある。だからこそ、タレント政治家やタレント評論家やタレント○○を大量に動員して、これまた巨大資本がスポンサーとなっているテレビを通じて、バラ色の新自由主義思想がいっそう振りまかれることになるのだ。

さらに、貧困を強いる政府を支持させるための方策がとられることになる。それが新保守主義ネオコンサヴァティズム)である。「日本万歳、日本は素晴らしい」という思想を振りまくのだ。日本と日本の政府(一握りの金持ちの代弁者)を混同させることを通して、「金持ち優遇で庶民に冷たい日本の政治」への批判を封じ込めようとする作戦である。愛国心の強調や日の丸・君が代強制は、「おまえは国を愛していないのか」という踏み絵の前に立たせて、その実、庶民に冷たい政治への忠誠を誓わせているに過ぎない。

日本万歳という思想を浸透させることに成功すれば、庶民は福祉を削っても、増税しても、「お国のためにガマンすることは仕方ない(欲シガリマセン勝ツマデハ)」と考えてくれるだろう。ネオコングループは、国家のためには基本的人権の制限が当然であるかのような主張の公民の教科書を作成して採択させるなど、着々とこの思想を広げようとしている。

ネオコンは、(コンサヴァティズムや本当の右翼とは違って)心から日の丸・君が代を大事だなどと思ってはいない。それが、金持ち優遇政治への批判を許さない体制に役立つから利用してるのだ。

さらに言えば、資本の集中は、国内問題ではなく世界規模で進められていくものだ。だから、富の集中のためには他国からの収奪が必要となる。アメリカが戦争好きなのは、なにも軍需産業を維持するためだけではない。

日本の場合、世界規模での富の集中に参加するためには、二つの条件をクリアしなければならない。

一つめは、アジア・太平洋戦争の悲惨なイメージ、加害者のイメージを払拭することだ。そうすることによって、現代の自衛隊の海外派兵が容易になる。だから、ネオコンは、「大東亜戦争」はアジア解放の良い戦争であったとする歴史教科書を作りっているのだ。これもネオコンが首長をつとめる自治体での採用が進められているとおりだ。

二つめは、憲法9条の改定だ。これがあると海外に出かけて富の収奪を行うことが困難だ。だから、一応「日本を誇りにすること」を標榜するネオコンではあるが、「憲法9条は世界に誇る日本のものだ」という立場を取る余地はまったくない。

他国の国旗に敬意を払うのは国際常識だなどと主張して日の丸・君が代への強制を正当化しながら、机の下では、相手の脚を踏みつけることをいとわないのが、ネオコンの振る舞いだ。

要約すれば、一握りの金持ちがさらに金持ちになり、多数の貧乏人がつくりだされても、それを肯定する国民を育成するための仕掛けとして、「自己選択・自己責任」のネオリベラリズムが振りまかれ、「愛国心」のネオコンサヴァティズムが振りまかれるのであり、金持ちに寄生している政治家、学者、評論家がメッセンジャーとして活躍するのだ。