目的達成のためならどんな手段をとっても良いのか―オサマ・ビンラディン殺害に思う

アメリカがオサマ・ビンラディンを急襲し、武器を持っていないのに殺害し、勝手に海に遺体を流したというニュースが入っている。

まったく写真が掲載されないうえ、遺体を海に流したとなると、第三者に本人かどうかを確認する術がないが、今回は、とりあえず本人だったとして話を進めたい。

世の中には、民主的手続きを無視して、結果さえ良ければ良いのだという人もいるかもしれないが、それは全くの誤りであることを、今回の事件の二つの次元から指摘しておきたい。

ビンラディンパキスタン国内の邸宅に潜伏していたのだが、アメリカはパキスタン政府に一言も告げずに作戦を遂行したという。他国の領土で、勝手に軍事作戦を行うなどということが許されてよいのだろうか。

ビンラディンが殺害されたのは結果論であって、一つ間違えば赤の他人を殺害していたかもしれない。この点で結果オーライ説は誤りだ。

それだけでなく、「悪人」を殺害するためには、他国の領土で勝手なことをしてよいということになれば、たとえば中国政府が日本国内で、日本政府に内密で反政府勢力を襲撃して殺害するということが許されることになる(日本はかつて、金大中事件で、このことを許してしまった歴史がある)。

主権国家の了解なしに、その国の中で軍事行動を起こすということは、その国家の主権の否定以外のなにものでもない。

最近流行りだが、「正義について話をしよう」とするなら、少なくともダブルスタンダードは許されない。アメリカは、他国が自国で勝手に軍事行動をすることを認めるのか。それならば話は別なのだが。

ここでまた、「いや、中国政府が反政府勢力を殺害するのと、アメリカがオサマ・ビンラディンを殺害するのでは次元が違うだろう」という、取るに足らない反論があるかもしれない。

では、オサマ・ビンラディンが本当に犯人であったとする証拠はあるのだろうか。証拠があるなら、きちんと裁判で明らかにすべきだったのではないか。「裁判で立証できないし、殺害したほうが支持率も上がるし、簡単だ」と考えたのかもしれない。もしオサマ・ビンラディンが犯人でなかったら、完全なえん罪殺人となるだけではなく、真犯人を野放しにすることになる。だからこそ、裁判という手続きは重要なのだ。

手続きは、テキトーに作られているわけではない。むしろ、社会をきちんと維持するために無くてはならないものなのだ。本来の目的は、戦争とテロのない平和な世界の実現のはずだが、軍事作戦でテロの首謀者と思われる人物を殺害しても、この目的は達成できない。それどころか、軍事行動や殺人を正当化することにしかならない。平和的な手続きを通してしか、平和な社会は作られない。

そもそもアメリカの目的は、テロや戦争のない平和な社会をつくるなどという高尚なものではなく、オサマ・ビンラディンの殺害で溜飲を下げて、支持率を上げるという低次元の話だったので、馬の耳に念仏かもしれないけれど。