悪貨は良貨を駆逐する―教育実践の多様性のために

本日、生活指導のサークルで話題になったことは、喩えは良くないが「悪貨は良貨を駆逐する」ということだと考えた。

たいていの学校では、同じ学年に複数クラスがあるから、当然複数の担任がいる。そういうところで、次のようなこと想像してみてほしい。

3年2組の20代の担任のA先生は、学級通信に可能性を感じて、毎日とはいわないまでも週2〜3回学級通信を発行している。子どもにも保護者にもけっこう好評を博している。3年3組の40代のB先生は健康のこともあって授業で精一杯で学級通信など作っている余裕がないから発行しない。

あるとき、保護者から、「どうして2組は学級通信を出しているのに、3組は出さないのか」というクレームがB先生のところに入る。

それをうけて、B先生から学年教師集団に対して次のような提案がなされる。

「だれかが勝手に自分の好きなことをすると、他の先生までやらないとダメ教師のように言われてしまう。だから、学年で決めたこと以外はやらないようにしましょう。」

こうして、それぞれの先生にはそれぞれ実践してみたいことがあるのだが、それができない先生や、実践したくない先生がいると、「わたしもやらないといけなくなるから」という理由でつぶされていく。かくして、学年で統一される基準は、どの先生もやっている最低ラインのものとなる。

こういうことはよくあることではないか。同じ学年のそれぞれの先生が自由に実践できれば、

A先生が10
B先生が3
C先生が4
D先生が6
E先生が7

の実践をしていたとする。そうすると5人の先生で合計30のアウトプットになる。

ところが、保護者からのクレームの結果、最低ラインに合わせることになると、全員が3になるので、合計で15のアウトプットになる。

平等を追究した結果、パフォーマンスが低下するという現象だ。

保護者は、他のクラスと比較して「我が子にも良い教育を」と願って要求したのだが、その結果、すべてのクラスが悪い教育になってしまうという逆説だ。

これと似たことはよくある。大学などでも、一部の先生の問題を是正するのに、全教員に網をかけるような方針が出される。そうすると、すべての教員がこれまで不要だった書類を提出しなければならないなど、雑務に追われることになる。その結果、研究や教育に割く時間が減ってしまう等。


これは、悪しき平等主義と言われる問題だ。子どもの教育に置き換えてみると、できない子に合わせてみんな低い水準の教育を受けるより、できる子はどんどん進んだ方が良い、という批判の論理と重なって見える。しかし、上記のことと能力別教育とは似て非なるものなので注意が必要だ。

まず、我々が能力別教育を批判するのは、何よりも、それが学びになっていないからだ。多くの場合、A=Aだけで終わってしまっているからテストで問題が解けたとしても、本当は分かっていない。本当に分かるとは、A≠B、A≠C、A≠Dであり、その結果としてのA=Aということだ。間違った考え方をしている子も含めて、様々な考え方をしている子どもと議論して獲得することが、より深く多面的に理解するのに必須だからだ。もちろん、それによっていわゆる「できない子」も単に反復練習してできるようになるのではなく、「分かってできる」きるようになる。そこでは、「できる―できない」ということを含みつつ、多様な考えを交流することで生まれるものを期待しているのだ。

他方、教師が実践上、最低ラインに合わせるというのは、多様なものが交流することで何かを生むという論理ではない。むしろ多様性を認めないという仕方での問題の隠蔽―問題解決ではない―なのだ。

なお副題に絡めて言うと、最新の学習指導要領が授業のやり方まで事細かに指定するようになったことも問題あるやり方の一つ。