平野啓一郎の「個人」と「分人」の間―リキッドモダン社会の教育を考えるためのメモ

作家の平野啓一郎さんが、Twitterでおもしろい議論をしていた。

リキッドモダン社会におけるアイデンティティとコミュニティの問題を考えるためにとても参考になりそうなので、ちょっとやりとりを転載しておく。

平野:自粛ブームは、分割不可能な「個人」という発想の典型的な弊害。人間は、場所や対人関係毎に分人化する。花見ではしゃいだり、恋人とデートしたりして、その時々の分人をエンジョイしても、震災報道に接して心を痛めたり、今後の日本を考えたりする分人が失われるわけではない。
藤井:難しいところ。個人は世界が一つであることの相対物。だから世界が細切れに分断化・文節化するほど分人化するのかも。とすれば、世界の分断化・文節化が良いものかどうか。ひょっとすると今回の事故も世界の分断化に起因するかも。消費者と主権者の文節化が石原を支えてるかも。
平野:分節化されたもの同士が、重なり合う部分はあると思います。それは刻々と変化すると思いますが。「かたちだけの愛」という小説では、それを谷崎にならって、「陰翳」という概念で考えました。
平野:今、西日本に行って数日間過ごすと、東京にいるのと全然違った自分になる。分人は、キャラを演じるという意識的な行為ではなく、環境との相互作用による自然な現象。
平野:もちろん、花見をしている時に、被災地のことが胸を過ぎることはある。個々の分人間のそうした相互作用を、『かたちだけの愛』では、谷崎の「陰翳」という概念で考えた。それは固定的ではなく、刻々と変わりゆくもの。
藤井:なるほど。最近の多重人格化論、リキッドモダン論などと比べながら、少し平野さんの小説を読んで考えてみたいと思います。
平野:近接する議論だと思います。環境との相互作用の強調と、情報の統合形式としての「人格」の評価、その複数的な導入(=分人)といったところが、僕の議論の特徴だと思っています。
藤井:分人化のやりとり、ちょっとメモのためブログに転載させてください。とりあえず思考メモを書いておいて、また小説を読んで考えをアップしたいと思います。
平野:どうぞ。また、ご感想、ご批判などお聞かせ下さい。

読んで考えると約束をしたので、『かたちだけの愛』を読んでから書くのが筋なのだが、その前に考えたことについてメモしておきたい。

まず、自分でも思考が足りない部分があるので、その辺の練り直しが必要だと思う。石原を支える人々の思考についてはむしろ分人化していないのではないか。露悪的言動に惹かれる人たちが、自分の生活の利益を損なってでも支持するのはなぜかを問わなければならなかった。


つぎに、平野さんが

  • 「その時々の分人をエンジョイしても、震災報道に接して心を痛めたり、今後の日本を考えたりする分人が失われるわけではない。」

というところや

  • 「分節化されたもの同士が、重なり合う部分はあると思います。それは刻々と変化すると思いますが。」

というところが一つのカギになるだろう。

リキッドモダンや多重人格化は、スプリットした人格が水たまりをひらりと跳び越えるように軽々と移行することを強調する。それらは、分人間の移動の場合もあるし、過去と現在と未来という時間的な移動の場合もある。ジグムントバウマンは、「昨日の真実が今日にはウソになる」ということばで人々の移行について述べているが、それが個人としての移動なのか、分人間の移行なのかということを検討してみるという課題が一つある。また、バウマンがリキッド・ラヴの問題で採り上げる、過去の恋人を素早く忘れるためのビジネスについて論じるときの、わざわざ忘れるために儀式なり決断をしなければならないというところに、分人間の移行の困難さが見て取れる。

リキッドモダンを強調する人たちは、現代人がこの移行の困難さを感じさせない点に注目しているのだろうが、逆に、この移行の困難さの感覚にセンシティヴにさせることに教育の一つの課題があるのではないかという気がする。困難さの感覚は、自分の生きている複数の「世界」同士の「重なり」、また自分の世界と他者の生きている「世界」の「重なり」に注目することであり、狭くちっぽけにみえる世界が広い世界へと開かれる扉になるのではないかと思うからだ。谷崎の「陰翳」はこの困難さの感覚と重なるのだろうか。現代人の生き方を分析する素材としてとてもおもしろそうだ。平野啓一郎からしばらく目が離せないかも。

追記

その後、平野さんから、分人というテーマについて『ドーン』から触れているということなので、こちらも併せて読むことにした。