ポスト・フクシマの教育学(1) 高等教育の予算配分の問題

フクシマの出来事の原因で教育に関係することはたくさんあると思うが、今日は貧困な高等教育予算、競争的資金の弊害、研究の一極集中の問題を考えてみたい。

多くの人は、大学の教員になれば研究に必要な研究費は配分されていると思っているかもしれないが、そうではない。

そのことを説明する前に、まず我が国の貧困な高等教育予算について見ておきたい。OECD経済協力開発機構)の国際比較調査には、高等教育予算に国や自治体がどの程度お金を出しているのかがその国のGDPに対する比率で示されている。それを簡単にグラフ化すると以下のようになる(OECD Education at a Glance 2010より作成)。


ここに見られるように日本の高等教育予算はたったの0.5%。最低のチリの0.3%に次いで少ない。OECD加盟国平均の1.0%の半分に過ぎない。デンマークフィンランド、カナダなどの3分の1以下だ。

この、あまつさえ少ない高等教育予算が平等には配分されない。一部分は平等に配分されるが、それ以外は「競争的資金」として配分される。競争的資金は全体額は決まっていて、それを研究者が申請して取り合う資金である。以前はもっと平等配分だったが、年々平等配分分は減り、競争的資金分の割合が増えてきている。一つの大学のなかの予算配分ですら、「もっと競争的に配分しなさい」という文部科学省からの指導がある。兵糧攻めにされている研究者たちは、競争的資金に頼らざるを得なくなってくる。もちろん「武士は食わねど…」などと言うこともできないではないが、そんなことをしていると万年助教(かつての「助手」)として低賃金でくすぶり続けるリスクにさらされる。

また、この競争的資金の一部は大学の運営に充てられることになっているので、競争的資金をたくさんとってくる研究者が多いほど大学は潤うことになる。そこで、大学としても所属している研究者にどれだけ多くの競争的資金を獲得させるかに血道をあげるようになる。本来なら、各大学は平等配分するように訴えるべきなのだが、禁断の果実に手を出してしまっているといったところだ。(この資金獲得の申請書の作成にはかなりの時間と労力が必要であり、それによって研究を妨げられるという問題があることも指摘しておこう。)

では、どうやったらこの科学研究費を勝ち取れるのか。ひとつはすでに成果を上げているものだ。成果があると予算が取りやすい。こうして、もう結果が出ているものにばかりお金がつぎ込まれることになる。まだ日の目を見ていないが斬新な研究や、成果が出るのに何年も何十年もかかるような研究では、なかなか競争的資金を獲得できない。さらに重要なのは、審査委員のメガネにかなうことだ。この審査委員、一体どんな人がなっているんだろうか。審査委員は任期を終えると氏名が公表されることになっているのでちょっと見てみよう。審査委員名簿で、たとえば

理工系->工学->総合工学->原子力

の委員を見てみるとよい。原発事故でいえば、テレビニュースに出てきて、今回の事故の危険性を出来る限り過小評価しようとする発言を繰り返した研究者や電力会社や経済産業省と関わっている人が名を連ねている。どんな研究のアプライがあって、そのうちどんな研究に資金配分されたのかは調査してみなければ正確なことは言えないが、原発推進派の人が審査委員の大半なのだとすれば、原発の危険性を問題にするような研究者が競争的資金を獲得する可能性はきわめて低かったのではないかと推測したくなる。

これは原発だけの問題ではない。省庁の利権が絡むようなところでは、どこでも生じうる問題なのだ。残念ながら、研究予算で研究者が支配され、その支配の土俵に乗った研究者が優遇され、その人たちが資金配分に関与するという悪循環が生じるような仕組みが作られてきた。気象学会が放射性物質拡散予測を研究者に「勝手に公表するな」と自粛を迫ったのも、気象庁が公表しないと言ったのも、気象研究はいまや莫大な予算を必要とすることと無関係じゃないのではないかと勘ぐりたくなる。

産学協同の名の下で、企業から委託研究費を得て研究している研究している研究者も少なくない。この研究費を出すのは企業なのだから、経営に不利益な研究にお金を出さないのが資本主義の道理だ。だから、研究者は企業の側にたった研究を行うことになる。今回の件で言えば、東京電力から研究委託を受けて研究している大学の研究者ということになる。このなかには、政府の各省庁から民間企業にさまざまな形で研究開発予算が配分されているのだが、結果的に、政府->民間企業->大学というように税金が民間企業経由で大学に流れてくるものも含まれているだろう。

東京電力から委託研究費を受けている大学・研究者はちょっとぐぐってみればぞろぞろ出てくる。たとえば、東京大学は、東京大学寄付講座・寄付研究部門設置調を公表しているが、このなかでも「核燃料サイクル社会工学」に1億5000万円寄付していることが示されている。

いずれにしても、政府が直截に、あるいは企業を迂回して間接的に、大学の研究を支配しているという構図が見えてくる。そのような構図が今回の事故を招いたと言えないだろうか。もちろん、研究者のモラルは厳しく批判されるべきである。4月4日、放射性物質を含む汚染水を海に放出すると発表した東電社員は涙で言葉に詰まりながら謝罪していたが、原発を推進してきた研究者も涙の一つぐらい流して謝罪する良心はないのかとは思う。けれどまあ何はともあれ、その程度のモラルしかない知的エリートを育てちゃった日本の教育と、知的エリートがそのように振る舞ってしまう研究予算配分の仕組みつくってしまった政府の責任が第一に問わなければならないだろう。

さらに、このような競争的資金配分の仕組みは、東京大学など一部の大学、あるいは特定の研究分野に予算の一極集中を招き、日本の各地で多様な研究が開花するのを阻害していることにも注意しなければならない。エネルギー研究で言えば、原発開発ばかりに予算がつぎ込まれ、多様なクリーンエネルギーに関心を持つ多様な研究者の研究が十分に進んでこなかったという問題がある。

また、たとえば、Asahi.comの記事を見ると分かるように、研究の拠点がある地域に集中しているとき、そこが被災するとたちまちいろんな研究がストップして取り返しのつかない事態も引き起こしてしまう。

筑波大遺伝子実験センターが2日間停電した。マイナス80度に保っていた冷凍庫が0度近くに上昇。研究者から預かっていた遺伝子サンプルなどがダメージを受けた。
 鎌田博センター長は「20年近くかけて作ってきたサンプルも失われた。やりなおしても作れない可能性もある。被害の算定もできない」と頭を抱えた。

「震災、科学研究に痛手 つくばの施設損壊、停電追い打ち」


もちろん、巨額の予算が必要だったり、立地条件があったりして必ずしも各地に分散できない研究施設もあるだろうが、研究拠点が分散されていればここまで研究がダメージをうけたり、停滞することもなかったのではないかと思ってしまう。以前のプログで書いたとおり人間には無駄が必要だ。そしてそれが強い社会なのだ。

原発事故という人災を招いた予算配分による研究支配、研究内容の集中による多様性・冗長性の喪失、天災に対応できない研究予算・研究施設の一極集中の問題。これらを改めなければ、人類の未来を支える学問は育っていかないだろう。人々の関心が、このような根本的問題にまでメスが入れられるかどうかにも向くとよいのだけれど。