ポスト・フクシマ教育学への序文(未定稿)

まだ事態は予断を許さない。だから、ポスト・フクシマと呼ぶには時期尚早かもしれない。しかし、オール・ジャパン、挙国一致の掛け声に隠れて、既得権益ネットワークが着々とプレ・フクシマの状態への回帰を画策している中では、ことが終わってからではなく、まさに並行して議論していくことが重要だと考えている。

ポスト・フクシマというのは、もちろん地震津波のことではなく原発のことだ。

批判的な科学者の意見に耳を傾けず原発建設・増設をすすめた電力会社と政府と歴代与党、東京電力の安全対策軽視を放置した政府、企業と癒着した政治家と官僚、最悪の事態を考慮せず周辺住民の命を危険にさらす政治家、このようないい加減でエゴセントリックな企業人や政治家や官僚などのエリートを生み出してきた教育、またそのようなエリートの支配を放置してきた市民、マイノリティながら一生懸命真実を明らかにしようとしたいる人がいるにもかかわらず、長いものに巻かれることを良しとする市民を生み出した教育、この緊急時においてさえ学力テストの実施や拡大に執着する文部科学省とテストの点数と受験に執着する親子、まじめな支援を妨害するようなデマを流す人やそれらを鵜呑みにしてしまうリテラシーのない人たちを生みだした教育、これらの教育を、これまで行われ、そして現在も行われている教育の具体的な有りようと関連づけながら、どのような教育がそれとは反対のシチズンを生み出すことができるのかを検討していくことが急務である。


検討に時間がかかるし、門外漢な部分もあるので、それぞれの教育学者が自分の領分で検証してくれることを期待しつつ、思いつくまま、断片的にでも、何度かにわたってこの問題を論じていきたい。