SEALDsへの批判はどこに向かうのか

現在、安倍内閣を揺るがしている抗議行動の中心的なものの一つとして、SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)という学生主体の運動が注目を集めている。

安倍政権・安倍支持者側からの批判

かれらが台風の目となるなかで、安倍政権寄りの立場からSEALDsを批判する人たちが湧いてくるのは当然のことだろう。SEALDs運動の拡大に焦ったのか、嫉妬してるのか、2ちゃんねる等では、内輪同士で批判話に花が咲いている。

あからさまな批判で一番笑えるのは、磯崎陽輔首相補佐官によるデモ参加者の過小評価(6万、10万という報道があるのに5000人とつぶやき)や百田尚樹や「デモ参加者はバイト」というものだ。これについては、デモをなめるな!(リテラ記事)に詳しいのでご参照いただきたい。

ちょっと手が込んでくると、彼・彼女らのことを心配しているようなフリをしながら運動から遠ざけようとするものも現れる。

この場合の特徴は、

SEALDs=共産党

あるいは

「デモに参加すると就職できなくなるので気をつけてね」

というものである。

この両方を盛り込んで大量にリツイートされているのがたとえばこちら

アカといえばみんな逃げ出すと考えている時点で「脳みそが未だにアジア・太平洋戦争の戦時中から1mmも成長していないのか?」と言いたくなるし、もし仮にそういう状況になっているなら、それこそ現在が新たな戦前であることを意味するので、市民はますますそういう考えを打ちのめさないといけないということになるだろう。

(修正→)警察が現に犯罪が起きてないと写真をとることができないという昭和44年の最高裁判決は、最近の最高裁判決で覆ったというご指摘をコメントでいただいたので、24番目のコメントを参照してください。比較のため、以下のもともとの記述も残しておきます。

ちなみに、警察が犯罪を犯していない時点で写真をとるのは法律違反なので、見つけたら警察官に最高裁判決を教えてあげましょうね。→デモ活動への警察撮影について

また、「就職できなくなるので気をつけてね」というのは親切そうに見えるが、ほんとうに心配しているなら、次のような態度を取るはずである。


そもそも、デモに参加したから就職できないなんてことは実際あるのかということだ。西武グループのカリスマとして君臨した堤清二氏は、東大在学中は学生運動に傾倒していたし、学生運動に参加した団塊世代の学生たちも多数大学教員として就職している。

(→加筆)もうちょっと言えば、デモに参加する人はおかしいことをおかしいと主張する可能性の高い人なので、例えば、食品の産地偽装や賞味期限改竄や企業の粉飾決算に対して「ノー」という素質を持った人であるとも言える。企業は、そういう人を採用しておいた方が、オリンパス東芝のような重大な問題に至らずに済むわけだから、むしろ積極的に採用すべきだろうと思う。

反安倍政権側からの批判


安保法制に批判的な人達からのSEALDsに対する批判も喧しい。

もちろん、SEALDsの運動にも足りない部分はあるかもしれない。だから、アドバイスしたりするのは一向に構わない。しかし、私がネットの言説を眺めている限り、SEALDsがそれら小姑達のアドバイスを全面的に受け入れないと、SEALDsの運動そのものを全面否定するようになっていく人も少なくないと思われる。

それらのテーマはだいたい以下のようなものだ。

1.警察との関係

通行人の通路を確保するなど、警察と相談しながらデモ・集会を実施しているのが、権力と一体化しているという批判。

これについては、いくつかツイートで批判しているのだが、その観点は大きく分けて二つある。

第一の点は、運動を支える世論との関わりに関するものだ。抗議行動に世論の支持があるのか世論から眉をひそめられているのかは、その後の運動の拡大にとって極めて重要である。権力者がメディアを巧みに利用し、かつメディアの報道を正しいと思う人の割合が高い日本では、細心の注意が必要な問題だ。過激な運動の是非はおくとしても、それが効果を発揮するのは、それに対して世論とメディアの支えがあってはじめて、のことである。

第二の点は、権力機構の末端であるという組織上・役職上の敵である警察を、本当の敵にしてしまうということだ。警察官は、上から言われた命令に従って行動しているに過ぎない。それなのに、警察官を罵倒したり、デモ隊がくってかかったり、挑発したりすれば、彼・彼女らは「上からの命令が正しかった」と意を強くして、ますますデモを抑圧するだけだ。そうならないために、警察官が職務を遂行しようとすればするほど「いつも会話しているこの人やあの人を暴力的に抑えつけて良いのか」という「道徳的衝動」が生まれるような関係を作っておくことも重要なのだ。ナチスの研究をしたアーレントやバウマンがもっていた問題意識から考えると、そういうことになるのではないだろうか。

2.「国民なめんな」というコール

SEALDsの運動は、日本国籍を持たない人を排除している。国民なんて言葉を言葉を使うのはけしからんという批判。

この批判は批判で、国民とは誰か、市民とは誰かという法学的・政治学的問題を考えるときには、重要な問題ではある。これについても二点論じておきたい。

第一は、日本国憲法に国民という用語が出てくることだ。そしてこの用語が何を指すのかについては学問上も様々な議論がある。もともとはpeopleという単語を訳したもの(GHQ占領下の日本において、日本国憲法はまず英語で書かれた)である。だから、必ずしも日本国籍を意味しないという議論もある。それなら、「ピープルなめんな」というコールもあり得るので、修正しても構わないだろうが、このあたりは、すでに定型化したコールを変えることについての効果に関する戦術的・戦略的な問題であるように思える。

第二は、もちろん問題があるからといって、SEALDsの運動そのものにブレーキをかけるほど重大な問題かということである。まずは安保法制を廃案に追い込んで、その後でゆっくり議論しても遅くないのではないか。そのためには、自分たちと考えが違うからといってSEALDsを罵倒するのではなく、対話し続けることが重要なのではないかと思う次第。

3.ルッキズム・セクシズム

これは、おしゃれなWebサイトに、おしゃれなフライヤーやプラカード、ヘソだしルックやミニスカなどおしゃれな服装が、広告代理店みたいだし、男性に媚びているという批判。

SEALDs(シールズ)の美女が可愛い!戦争・徴兵制・安倍晋三に反対する若者たちの姿というまとめが作られたことを境に、一挙にSEALDs批判が吹き上がった。

これについては3つの点で問題を整理しておきたい。

第一に、それはまとめた人の視線であって、SEALDsの考えではない。彼・彼女らは、自分たちの普段のセンスでWebをつくり、フライヤーをつくり、プラカードを作っているにすぎない。もしもそれが広告代理店みたいだというなら、そりゃそうだろう。広告代理店によって作られたも言葉やモノに囲まれた日常のなかで育ってきたんだもの。責めるなら彼・彼女らではなく、「そういう世の中にしてしまった大人たちの方を」でしょうに。

そして、彼らは、日常生活しているスタイルをそのまま運動に持ち込んでいるだけなんじゃないだろうか。彼らが日常はジャージにサンダルで大学に行っているのに、デモの時だけヘソだしでミニスカで来ているというなら、それはそれで批判の余地もあろうが、かれらは息をするように、街に遊びに行くように、デートに行くように、デモにも出かけているのではないか。

内田樹は7月15日に

「今日が始まりです。この法案を廃案にするまで、息をするようにどこまでも長く運動していかねばならない。今日感じた"いてもたってもいられない"をこれからも継続していきましょう。市民の力は無駄じゃない。」
http://blog.goo.ne.jp/koube-69/e/ced6f32e710e8e05be207af7238f2820?fm=rss

と発言しているが、まさに息をするようにデモをやってるからあのスタイルになるのではないかと思うのは私だけではないだろう。

第二に、SEALDsの女の子たちをカワイイとかヘソだしだとか言って性的な対象としてまなざしているのは外野だろう。仮にデモに来ている女の子がカワイイとして、それは彼女らの責任か? 世間のモノサシでカワイイ子がデモに来たら、批判されなければならないのか? あるいは日常のおしゃれでヘソだししたり、ミニスカはいたりしているのを、性的を売り物にしているみたいに言うのって、痴漢された女性に対して「そんな服装しているからだ」とかいってるのとどう違うんだろうかという話である。

第三に、全共闘世代の人たちの「ヘルメットにマスクにサングラス」とか、「立て看板やビラの独特の書体の文字とか、あれが正統だという根拠は全くない。むしろ、あれはあれで、当時の若者がこれが政治運動ではカッコイイと思ってやっていたのではないか。そういう意味では、現在のSEALDsの運動とたいして違わないのではないか。

そもそもの目的に立ち返ろう

安倍政権に批判的な人たちが、運動のスタイルとかこまかなことで、アドバイスするならわかるけど、脚を引っ張り始めている状況で、いったい何がしたいのかと思う。今は、とりかく所期の目的を達成するために、連帯できるところは連帯して、対話するところは対話しながら、運動を拡大していくときではないのか。