SEALDsへの批判はどこに向かうのか

現在、安倍内閣を揺るがしている抗議行動の中心的なものの一つとして、SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動)という学生主体の運動が注目を集めている。

安倍政権・安倍支持者側からの批判

かれらが台風の目となるなかで、安倍政権寄りの立場からSEALDsを批判する人たちが湧いてくるのは当然のことだろう。SEALDs運動の拡大に焦ったのか、嫉妬してるのか、2ちゃんねる等では、内輪同士で批判話に花が咲いている。

あからさまな批判で一番笑えるのは、磯崎陽輔首相補佐官によるデモ参加者の過小評価(6万、10万という報道があるのに5000人とつぶやき)や百田尚樹や「デモ参加者はバイト」というものだ。これについては、デモをなめるな!(リテラ記事)に詳しいのでご参照いただきたい。

ちょっと手が込んでくると、彼・彼女らのことを心配しているようなフリをしながら運動から遠ざけようとするものも現れる。

この場合の特徴は、

SEALDs=共産党

あるいは

「デモに参加すると就職できなくなるので気をつけてね」

というものである。

この両方を盛り込んで大量にリツイートされているのがたとえばこちら

アカといえばみんな逃げ出すと考えている時点で「脳みそが未だにアジア・太平洋戦争の戦時中から1mmも成長していないのか?」と言いたくなるし、もし仮にそういう状況になっているなら、それこそ現在が新たな戦前であることを意味するので、市民はますますそういう考えを打ちのめさないといけないということになるだろう。

(修正→)警察が現に犯罪が起きてないと写真をとることができないという昭和44年の最高裁判決は、最近の最高裁判決で覆ったというご指摘をコメントでいただいたので、24番目のコメントを参照してください。比較のため、以下のもともとの記述も残しておきます。

ちなみに、警察が犯罪を犯していない時点で写真をとるのは法律違反なので、見つけたら警察官に最高裁判決を教えてあげましょうね。→デモ活動への警察撮影について

また、「就職できなくなるので気をつけてね」というのは親切そうに見えるが、ほんとうに心配しているなら、次のような態度を取るはずである。


そもそも、デモに参加したから就職できないなんてことは実際あるのかということだ。西武グループのカリスマとして君臨した堤清二氏は、東大在学中は学生運動に傾倒していたし、学生運動に参加した団塊世代の学生たちも多数大学教員として就職している。

(→加筆)もうちょっと言えば、デモに参加する人はおかしいことをおかしいと主張する可能性の高い人なので、例えば、食品の産地偽装や賞味期限改竄や企業の粉飾決算に対して「ノー」という素質を持った人であるとも言える。企業は、そういう人を採用しておいた方が、オリンパス東芝のような重大な問題に至らずに済むわけだから、むしろ積極的に採用すべきだろうと思う。

反安倍政権側からの批判


安保法制に批判的な人達からのSEALDsに対する批判も喧しい。

もちろん、SEALDsの運動にも足りない部分はあるかもしれない。だから、アドバイスしたりするのは一向に構わない。しかし、私がネットの言説を眺めている限り、SEALDsがそれら小姑達のアドバイスを全面的に受け入れないと、SEALDsの運動そのものを全面否定するようになっていく人も少なくないと思われる。

それらのテーマはだいたい以下のようなものだ。

1.警察との関係

通行人の通路を確保するなど、警察と相談しながらデモ・集会を実施しているのが、権力と一体化しているという批判。

これについては、いくつかツイートで批判しているのだが、その観点は大きく分けて二つある。

第一の点は、運動を支える世論との関わりに関するものだ。抗議行動に世論の支持があるのか世論から眉をひそめられているのかは、その後の運動の拡大にとって極めて重要である。権力者がメディアを巧みに利用し、かつメディアの報道を正しいと思う人の割合が高い日本では、細心の注意が必要な問題だ。過激な運動の是非はおくとしても、それが効果を発揮するのは、それに対して世論とメディアの支えがあってはじめて、のことである。

第二の点は、権力機構の末端であるという組織上・役職上の敵である警察を、本当の敵にしてしまうということだ。警察官は、上から言われた命令に従って行動しているに過ぎない。それなのに、警察官を罵倒したり、デモ隊がくってかかったり、挑発したりすれば、彼・彼女らは「上からの命令が正しかった」と意を強くして、ますますデモを抑圧するだけだ。そうならないために、警察官が職務を遂行しようとすればするほど「いつも会話しているこの人やあの人を暴力的に抑えつけて良いのか」という「道徳的衝動」が生まれるような関係を作っておくことも重要なのだ。ナチスの研究をしたアーレントやバウマンがもっていた問題意識から考えると、そういうことになるのではないだろうか。

2.「国民なめんな」というコール

SEALDsの運動は、日本国籍を持たない人を排除している。国民なんて言葉を言葉を使うのはけしからんという批判。

この批判は批判で、国民とは誰か、市民とは誰かという法学的・政治学的問題を考えるときには、重要な問題ではある。これについても二点論じておきたい。

第一は、日本国憲法に国民という用語が出てくることだ。そしてこの用語が何を指すのかについては学問上も様々な議論がある。もともとはpeopleという単語を訳したもの(GHQ占領下の日本において、日本国憲法はまず英語で書かれた)である。だから、必ずしも日本国籍を意味しないという議論もある。それなら、「ピープルなめんな」というコールもあり得るので、修正しても構わないだろうが、このあたりは、すでに定型化したコールを変えることについての効果に関する戦術的・戦略的な問題であるように思える。

第二は、もちろん問題があるからといって、SEALDsの運動そのものにブレーキをかけるほど重大な問題かということである。まずは安保法制を廃案に追い込んで、その後でゆっくり議論しても遅くないのではないか。そのためには、自分たちと考えが違うからといってSEALDsを罵倒するのではなく、対話し続けることが重要なのではないかと思う次第。

3.ルッキズム・セクシズム

これは、おしゃれなWebサイトに、おしゃれなフライヤーやプラカード、ヘソだしルックやミニスカなどおしゃれな服装が、広告代理店みたいだし、男性に媚びているという批判。

SEALDs(シールズ)の美女が可愛い!戦争・徴兵制・安倍晋三に反対する若者たちの姿というまとめが作られたことを境に、一挙にSEALDs批判が吹き上がった。

これについては3つの点で問題を整理しておきたい。

第一に、それはまとめた人の視線であって、SEALDsの考えではない。彼・彼女らは、自分たちの普段のセンスでWebをつくり、フライヤーをつくり、プラカードを作っているにすぎない。もしもそれが広告代理店みたいだというなら、そりゃそうだろう。広告代理店によって作られたも言葉やモノに囲まれた日常のなかで育ってきたんだもの。責めるなら彼・彼女らではなく、「そういう世の中にしてしまった大人たちの方を」でしょうに。

そして、彼らは、日常生活しているスタイルをそのまま運動に持ち込んでいるだけなんじゃないだろうか。彼らが日常はジャージにサンダルで大学に行っているのに、デモの時だけヘソだしでミニスカで来ているというなら、それはそれで批判の余地もあろうが、かれらは息をするように、街に遊びに行くように、デートに行くように、デモにも出かけているのではないか。

内田樹は7月15日に

「今日が始まりです。この法案を廃案にするまで、息をするようにどこまでも長く運動していかねばならない。今日感じた"いてもたってもいられない"をこれからも継続していきましょう。市民の力は無駄じゃない。」
http://blog.goo.ne.jp/koube-69/e/ced6f32e710e8e05be207af7238f2820?fm=rss

と発言しているが、まさに息をするようにデモをやってるからあのスタイルになるのではないかと思うのは私だけではないだろう。

第二に、SEALDsの女の子たちをカワイイとかヘソだしだとか言って性的な対象としてまなざしているのは外野だろう。仮にデモに来ている女の子がカワイイとして、それは彼女らの責任か? 世間のモノサシでカワイイ子がデモに来たら、批判されなければならないのか? あるいは日常のおしゃれでヘソだししたり、ミニスカはいたりしているのを、性的を売り物にしているみたいに言うのって、痴漢された女性に対して「そんな服装しているからだ」とかいってるのとどう違うんだろうかという話である。

第三に、全共闘世代の人たちの「ヘルメットにマスクにサングラス」とか、「立て看板やビラの独特の書体の文字とか、あれが正統だという根拠は全くない。むしろ、あれはあれで、当時の若者がこれが政治運動ではカッコイイと思ってやっていたのではないか。そういう意味では、現在のSEALDsの運動とたいして違わないのではないか。

そもそもの目的に立ち返ろう

安倍政権に批判的な人たちが、運動のスタイルとかこまかなことで、アドバイスするならわかるけど、脚を引っ張り始めている状況で、いったい何がしたいのかと思う。今は、とりかく所期の目的を達成するために、連帯できるところは連帯して、対話するところは対話しながら、運動を拡大していくときではないのか。

国連による国際幸福度調査、日本の順位は転落

国連が行っている世界幸福度調査の2015年の結果が報告されました。

WORLD HAPPINESS REPORT 2015

日本は、2013年には43位でしたが46位に後退しました。国家の役割が国民の安寧にあるとしたら、あきらかに世界第3位の経済大国にしてはお粗末な結果ですし、後退しているということは、国際的な政治力の競争において遅れをとっているということですね。

国際的な学力調査の順位がちょっと下がったら、政府もメディアもこぞって「学力低下」だと大騒ぎして、子どもたちから豊かな子ども期を奪い、わかる授業・楽しい授業すら犠牲にして、テスト対策漬けにしてシバキあげるのに、政府自身が努力すれば上げられる国際的な幸福度調査の順位が低下しても、知らん顔ですよね。

「他人(子ども)に厳しく自分に甘い」日本政府と言われても仕方ありません。そんな政府が道徳教育を強化するというのですからとんだお笑い種です。まず国家が範を垂れるべきです。

でも、国家なんて所詮その程度のものです。あまり期待しない方が良い。国民が幸福度をあげたければ、国家にすがるんじゃなくて、国民が国家をシバくことが必要ですね。

国立大学の国旗掲揚・国歌斉唱問題について

ネトウヨ自民党よりも遙かに右に行ってしまい国民から見放され、存在意義を失って議席を大幅に減らした次世代の党はまだ懲りていないようだ。次世代の党の松沢氏が国会で安倍首相に、国立大学の入学式等での国旗掲揚・国歌斉唱を要求したという。

国会でのやりとりについては、産経新聞の記事「国立大で国旗、国歌を」首相、入学式などでをご覧いただきたい。

そして、これを受けて、下村文科大臣が国立大学に国旗掲揚・国歌斉唱を要請するという。国立大に国歌斉唱を要請へ 下村文科相「強要ではない…」

すでにFACEBOOKでも論評したのだが、若干加筆修正して、ここにも掲載することにする。

①ユニバーシティーであることを忘れるな

次世代の党の松沢氏も安倍首相も、なぜ大学が英語でuniversityというのかきっと考えたこともないんだろう。universeには「宇宙」・「天地万有」という意味や「全人類」・「世界」という意味がある。その派生語のuniversalには「宇宙の」や「万人の」という他に「普遍的な」という意味がある。
これを見ればわかるように、大学は一国におさまるものではなく、全世界・全人類のものであり(宇宙人も含んで良いかもw)、文字通り、世界から人が集まり、知を高め合い、真理を発見していく場である。日本政府も日本の大学の世界大学ランキングにおける順位アップを求めたり、留学生の獲得を声高に叫んでいるところである。しかるに、国旗・国歌ときた。国旗・国歌なんて言ってたら、そのうち日本の大学だけ英単語がuniversityからdomesticityに変えられるんじゃないだろかと心配せざるをえない。

ここでは、大学が持つべきマインドをうまく言い表しているサン・ヴィクトルのフーゴーの有名な一節を引用しておこう。

故郷を甘美に思うものはまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、すでにかなりの力を蓄えたものである。だが、全世界を異郷と思うものこそ、完璧な人間である。

教育基本法に関連して

安倍首相は、上記の新聞記事にあるように「教育基本法の方針にのっとって、正しく実施されるべきではないか」と述べているが、安倍首相は教育基本法をきちんと理解しているのか、あるいは、故意に自分に都合の良いように解釈したのか。
教育基本法の大学に関する条文は以下の通りである。

第七条  大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。
2  大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない。

この条文を読めば、大学は教育基本法に則って「粛々と」自主的・自律的に国旗・国歌を突っぱねることができるのである。法律を武器として学問の自由を守るか、権力におもねるか、それは大学人次第である。

ちなみに、改悪される前の教育基本法の前文には

われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

とある。改悪教育基本法(2006:第一次安倍内閣時に成立)は、このなかから「普遍的」という文言を削除し、きわめて内向きの(domesticな)前文に書き換えている。このときにすでにuniversityに対する攻撃が始まっていたとみることもできる。

③大学は根本において批判的でなければならない

学問とは、既存の考え方や理論やものの見方を批判することから始まる。国家権力ごときからの要請を批判することなく「仰せの通りに」なんて甘受しているようでは、学問の府とは言えないだろう。これに抵抗できない大学人たちは、domesticityにふさわしく、domestic animal(家畜)と呼ばれるようになるのではないか。こうなってしまえば、もはや知識人ではなくただの小役人である。

④税金の投入は国旗・国歌強制の理由にならない

先の記事に、税金で賄われているとかかれてあるが、これで国旗・国歌を強制する理由にはまったくならない。
まず、国立大学は、各大学でその比率は異なるだろうが、自主財源ももっている。受験料、授業料などの自己収入、企業からの研究受託金などだ。もちろん、全予算の中では一部だが、教員養成大学のような小さな大学ほど、自己資金の比率は高い。すべて税金で賄われているわけではないし、ここのところ、運営費交付金はどんどん削られている。税金投入を減らしておきながら、税金を持ち出すのも、どうかと思う。
また、税金は国民が納めているのだが、国旗・国歌は国民の間でも意見の分かれる問題だ。だから、原資が税金であるからこそ、一方の意見のみを強制する事は間違いなのである。

国防とは何か―日本国憲法の「国」防力

毎日新聞憲法改正を煽るような編集委員岩見氏の署名コラムを掲載している。

作家の野坂昭如は、憲法改正について、
 <自衛隊国防軍に改める動きがある。名などどうでもいい。日本の何を守ろうとしているのか。小さな島国において軍事で守ることが出来るのか……>(5月21日付「毎日新聞」コラム<七転び八起き>)
 と書いている。国防をどうすればいいのか、何も触れていない。

 <九条の会>のノーベル賞作家、大江健三郎らは、改憲論議が起きるたびに、憲法9条こそ平和の礎と訴えてきた。世界の大江である。9条さえ守れば平和は永続する、と信じる人も多かろう。

 ところで、野坂、大江らは、かつての戦争末期を知り、敗戦体験を持つほぼ同世代の著名な有識者だが、<国を守る>とは何か、を突き詰めて考えたことがあったのだろうか。

(中略)

 いま肝心なことは、国敗れて憲法残る、にならないか、という問題提起にどう答えるかである。憲法改正の論点はいくつもあるが、核心は当然9条改正だ。
 安倍晋三首相らは改正の論拠として、現在の陸海空自衛隊は、国際社会が認めるれっきとした軍隊だが、9条2項は<陸海空の戦力は保持しない>としており、実態と合わない、と主張する。その通りで、誰も反対できない。
 だが、9条擁護論者は、それでも9条の理想主義を掲げ、文言を変えないことこそが平和を実現する道と主張し、世論の一部を形成している。安倍の形式論とは到底かみ合わない。
 安倍はここで、一歩も二歩も議論を深めなければならない。国を守るとは、具体的に何をすることか。守る気概を持つには何が不可欠か。参考までに、私の体験を少しばかり書く−−。

(中略)

 精鋭といわれた関東軍は名ばかりで、非戦闘員を残したまま逃げ散った。ポツダム宣言受諾によって戦争が終結(8月15日)したあとも、満州では非戦闘員の犠牲が続いたのである。

(中略)

 肝に銘じなければならないことは二つに尽きる。第一に、二度と戦争をしてはならないこと。そのためのあらゆる努力をする。9条1項(戦争の放棄)が掲げる通りだ。
 第二に、しかし不幸にして侵略されたり戦争に巻き込まれたりした場合、絶対に負けてはならないこと。敗北は民族の大悲惨である。しかし、戦後約70年、敗戦体験者が日々減り、経済繁栄のなかで戦争の記憶が薄れてきた。
 日本はきわどいところにきている、と私は思う。戦後の日本は、政治も世論、教育も<不戦>の誓いを唱えることばかり熱心だったが、<不敗>の備えを固めるのには関心が乏しかった。なぜか、いずれ触れる機会があるだろうが、とにかく、これまで平和が続いたから、これからも続くに違いない、という信じがたい楽天主義の国になっている。
 独立国として、また<不敗>の備えとして精強な軍隊を持つのは初歩であり、軍事大国とか軍国主義とは無縁のものだ。9条擁護論者はそれに反対している。徹底討論が必要だ。
(後略)

「国敗れて憲法残る」では=岩見隆夫

軍隊は国民を守らない

岩見氏がリアルな体験に基づいて語っているように、関東軍は国民を残して我先に逃走した。沖縄でも庶民を壕(ガマ)から追い出して、軍がガマを使用したことが知られている。

軍隊は基本的に国民を守るわけではない。タイトルの国防というのも、守るのは「国」であって国民ではない。では、国民ではない国とは何か。

戦前は「国体護持」と言われたように、国民が何人死のうが天皇制だけは維持しようとした、ということだろう。しかし、ここでいう天皇制は、戦前であるにもかかわらず象徴にすぎないだろう。それは、明治以降の日本資本主義の発展のなかで急成長してきた資本家と、そこにまとわりついた政治家たちを守ることに他ならなかったのではないだろうか。

そして、現在でも国防といったときに守ろうとしている「国」が、企業の利益であり、直接・間接にそこから利益を受けている政治家たちのことかもしれない、というのはありそうな話である。どうせ最も危険な前線に出ていって戦うことになるのは、どちらかといえば庶民階層出身の自衛隊員(国防軍人)だろうし。

岩見氏の言う国防とは何か

野坂、大江を批判しているが、はたして適切な批判たりえているのか。私の見る限り、岩見氏の言う「国防」の「国」と、野坂、大江が「国防」で考える「国」とが異なるから、岩見氏には突き詰めて考えているように見えないだけなのではないのかと思われる。

岩見氏の結論は、「不戦」は教えられてきたが、「不敗」は教えられてきていないということのようだ。そうだとすれば、第一に、絶対負けないだけの軍事力を持たねばならないことになる。それはどこの国とて同じことだろうから、世界中が軍拡競争に走ることになる。当然、教育や社会保障財政支出している場合ではなくなるだろう。敗戦前の日本のように国家予算の75%が軍事費ということにもなりかねない。軍拡のために国民の暮らしが成り立たなくなっている国で、国防というのは、何を守ることなのだろうか。少なくとも国民の暮らしではなさそうだ。

第二に、「不敗」ということは、負けてはならないということだから、決して降伏してはならない、ということにもなってしまいそうだ。そうなれば、最後の一人まで戦い抜くということになる。つまり、日本人がいなくなるまで戦うということである。この場合も、国防という言葉で守る「国」って何ですか? 少なくとも国民の命でも、日本人という存在でもなさそうだ。

第三に、不敗ということは、他国が負けても構わない、つまり、他国の国民の暮らしや命を奪っても構わないという立場に立つことにならないかということである。実際、現在、自民党憲法改正で考えている国防軍は、日本の領土を守ることよりも、海外に派兵して武力行使することの可能性のほうが遙かに高そうだし。

非暴力不服従の抵抗

私は、国民と言うか市民と言うかは残るとしても、そこに暮らしている庶民の命と暮らしを守ることこそが「国防」の意味するところでなければならないと考えている。決して、日本の企業や政府を守ることではない。軍事的支配は支配の正統性を調達する必要がないので、あまりありそうにもないことだが、万一、日本政府が外国によって乗っ取られても、それで日本に住む庶民の暮らしが、日本政府が統治していたときよりも良くなるのなら、まったく国防は果たされていると思う。

もし、日本に住む庶民の暮らしが悪くなったら、統治機構に対して闘いを挑めば良い。つまり、国防とは、国民と統治機構との闘いなのではないかと思うわけだ。

これは、けっして突飛な考え方ではない。いわゆる抵抗権の問題だ。抵抗権は、古代ギリシアの暴君暗殺論にまでさかのぼると言われるが、現在でも生きている思想であり現実である。たとえば、アメリカ合衆国憲法修正条項第2条では、連邦政府から国民の自由権を守るために義勇兵を組織することを認めている。

そのときにどう戦うかということが問題になる。アメリカで義勇兵が組織されたときには、明らかに軍事衝突になる。シリアの内戦を見れば分かるように、それだと犠牲者が増える。そうすれば、庶民から多数の死者を出すことになるだろう。庶民の暮らしを守るために庶民の命がなくなっては元も子もない。そこで、被害を最小限に食い止めるために何をするかを考えなければならない。その場合の答えは、やはり非暴力なのではないか。庶民の暮らしを守らない支配者と戦うひとつの手がかりは、非暴力不服従運動ではなかろうか。アジア・太平洋戦争では、日本が他国を侵略して行き、アジアで2000万人もの死者を出したわけだが、日本人も300万人が亡くなっている。万一、日本が侵略しなければアジアで2000万人もの人が亡くならずに済んだかもしれない。そして、戦争をせずに日本が侵略されてしまったとしても、非暴力不服従運動をしていたら300万人もの死者を出さなくてすんだかもしれない。

国防教育

以上のことから国防教育を考えると、どんな統治でも、自分たちの命と暮らしと人権を守らない統治者=支配者に対して徹底的に非暴力・不服従で闘うということを教えることになるだろう。

しかし、日本の現状の教育は、統治者・支配者に従順になることを中心に教えているように見える。こんな教育をしていたら、外国に侵略され、支配者が変わったとしても、すんなり適応して新しい支配者に従っていくのではないのだろうか。国防どころではないだろう。

ただ、不適切な統治に抵抗することを教えると、日本の現状の統治は持ちこたえられない可能性が高い。だから、そんなことをするわけはない。いずれにしても、権力者、支配者に恭順を示す教育をしている限り、本当の意味での国防教育なんてできないということだ。

憲法が心に残れば国は敗れていない

最後に、岩見氏のタイトルに関連させて一言。

岩見氏は、「国敗れて憲法残る」というが、国が敗れたらおそらく憲法そのものもすげ替えられるだろう。しかし、憲法の精神が国民に深く浸透していれば、平和憲法は国民の心に残っていることになる。そして、それに依拠して支配者に平和的で不屈の闘いを挑むのだとすれば、実は、国民はまだまだ敗れていないということになるのではないか。

教員の時間外手当について考える

毎日新聞によれば、文部科学省は負担が大きい教員に手当の増額を検討しているという。

授業が成立しにくい教育困難校の校長や部活動顧問ら負担が大きい教員に対し、文部科学省は手当増額の検討を始めた。公立小中学校を対象に、部活動手当は倍増させ、現在最高で給料の17・5%ついている管理職手当を20%までアップ。一方、主任教諭や休職教員の手当は減額する方針だ。
(中略)
土曜、日曜など休日を部活動の指導に充てて、尽力する教員には、現在1日2400円(4時間)の部活動手当を同4800円に倍増させる。管理職手当の増額対象は、教育困難校のほか、地域のリーダー的役割を果たす学校長で、副校長や教頭も同様に加算する。
(中略)
早朝出勤など不規則な勤務に対応するため、管理職を除く教員には時間外勤務手当の代わりに「教職調整額」として月給の4%が一律支給されているが、文科省は休職中の教員など時間外勤務への配慮の必要がない対象者について最大1%まで削減できないか検討している。教職調整額は各地で削減の動きがあり、東京都は研修しても指導力が改善しない教員を1%まで減額している。

文科省:教員手当増額を検討 「主任」「休職」減額で充当

ここでいくつか確認しておきたいことがある。

民間なら休日出勤で増額扱い

よく、公務員は民間を見習えと言われるが、教員の労働条件や給与支給は民間にならっていると言えるのか。

部活で土日に出勤した場合の手当が倍になると言うのは、それはそれで少しはマシになったのだろう。しかし、民間なら、法定休日である日曜や祝日に出勤すれば、日当の35%増しの休日手当を払わなければならない。すなわち、一日分の給与の135%を支給しなければならない。また、振替休日のない土曜出勤の場合も、125%の給与を支給しなければならない。日曜に4800円貰ったと考えれば、教員の一日あたりの賃金が3500円程度で考えられているということだ。これは、コンビニでのアルバイト4時間分程度である。教員も安く見られたものだ。

教職調整手当とは何か

教職調整手当も、記事では

「早朝出勤など不規則な勤務に対応するため、管理職を除く教員には時間外勤務手当の代わりに『教職調整額』として月給の4%が一律支給されている」

とあるが、この説明は、ちょっと違うのではないかと思う。正しく知るために、教職調整手当については、文部科学省の次のホームページに経緯が解説されているので参照されたい。

教職調整額の経緯等について

ものすごく端折って言えば、

(1)基本的に教員に時間外勤務を命じてはならない。
(2)しかし、行事や会議や災害などで仕方なく時間外勤務をしなければならないこともありうる。
(3)実際に1966年に時間外勤務の時間を調べてみたら平均しておよそ20分弱の時間外勤務をしている。
(4)それを給与に換算したらだいたい4%程度になる。
(5)これを教職調整手当として給与に加算しよう。

ということである。

現在始業前の早朝勤務だけでも20分弱をゆうに越えているだろう。さらに、21時、22時まで残業している教員なんてザラである。小・中学校教員は給食指導などがあり、昼休みがないので、勤務時間は16:30までだと思うので、毎日5時間程度残業している人がたくさんいるということだ。もちろん、早く帰っても、授業の準備などを自宅に持ち帰って行っている人も多数いる。

だから、休職中の教員に支給されるというのは確かにおかしな話だが、手当を見直すなら、残業実態に合わせるか、実際に残業時間をきちんと管理して残業手当を満額支給すべきものなのだ。

ましてや、指導力不足だからという理由で、時間外手当のために支給されている教職調整手当を減額してよいはずがない。サボっているわけではなくて仕事が遅い人には残業代を払わなくて良いということになってしまうではないか。そういうわけで東京都はあきらかに賃金に関する考え方を間違えている。

部活は教師の仕事か

しかし、そもそも部活は教師の仕事なのか。教師の仕事は基本的には学習指導と生活指導ではないのか。部活指導で夜遅くなったり、土日出勤したりして、授業の準備は十分できているのだろうか。学級の子どもたちの様子をつかむための様々な手は打っているのか。

部活は社会体育に移行したり、あるいは、外部コーチに任せたりすればよい、というのが私の基本的考え方である。

ときおり、部活が生き甲斐で、授業は適当な教師を見かけることがある。そんな教師は私の提案に反対するかも知れない。しかし、教師というのは「授業で子どもたちを惹きつけてなんぼ」の世界であるべきだ。あるいは、すぐれた学級づくりで子どもの信頼を得てなんぼの世界であるべきだ。

部活で子どもたちと関係を深めたり、部活でがんばっているところを見ているから生活指導ができるという教師もいるかもしれない。しかし、部活ではなく、班ノートや個人ノート(日誌)を通して子どもたちの理解を深めたり、面談に時間を使ったりすることの方が、よほど子どもたちとの関係を深められるし、子どもたちを理解できるのではないか。

部活での活躍を知りたければ、外部コーチや保護者から情報を得ればよいのだし、本人との関係が深まれば、個人ノートなどに部活のことを書いてくるに違いないではないか。

いずれにしても、今回の文部科学省の提案は、労働の原則論から言っても、学校の教育力向上という点から言っても、およそ褒められたものではないだろう。

「都教委=中国政府」説を展開してみますw

1.東京都の教育委員会が越権行為かつ営業妨害?

東京都教育委員会が、検定に合格している特定の会社(実教出版)の教科書を採用しないように圧力をかけている。

みなさんご存じのように、高校の教科書は、各学校ごとにどの教科書を採用するかを決めて良いことになっている。それなのに昨年は、実教出版の教科書を採用しようとしていた高校に、都教委が電話をかけてやめさせた。

今年は、東京新聞によれば、「使用は適切ではない」という決議まで挙げたようだ。

これは、営業妨害にあたるのではないかと思う。実教出版は損害賠償を起こせばいいのにと思う。

2.なぜ都教委はこんな暴挙にでたか

この経緯を東京新聞で見てみよう。

 国旗掲揚と国歌斉唱について「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」と記した実教出版(東京)の高校日本史教科書について、東京都教育委員会は二十七日に開いた定例会で「使用は適切でない」とする見解を議決した。都教委はこれまで、都立各校に非公式に「記述は都教委の考え方と相いれない」などと伝えていたが、公の場で教科書の使用適否に踏み込むのは前例がなく、反発が広がりそうだ。
(後略)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013062702000263.html

要するに、東京都教委が地方公務員である教職員に対して日の丸・君が代を強制しているわけだが、それを批判されているので、その教科書が使われては困るという訳である。

3.グーグルと中国政府の攻防戦を思い出す

「自分に都合の悪い情報は、知らせないようにする」。

どこかで見た風景である。そう、たとえば、グーグルと中国政府の攻防戦を思い出そう。

米グーグル,中国市場からの“撤退”を表明

自分に都合の悪いことは、国民に知らせないように、ツイッターを削除してまわったり、ブログを削除させたりするなど、意見表明の自由を制限して情報統制することで悪名高い中国政府と同じことをやってるわけじゃん。

もし、間違ってないという自信があるなら、正々堂々と議論で決着をつければよい話ですよね。「知られないように/考えさせないようにする」ということで決着をつけようとするのは、自分にやましいことがあるからと言われても仕方ないってことですよね。

これは、政府に対する批判的な立場や政府の意に沿わない科学的見解を、そもそも検定のところで排除しようとしている現政権にも言えることではありますけどね。

自虐史観ではなく反戦史観

メモとしてツイッターでつぶやいたことをまとめておきます。

1.
歴史認識で安倍首相と橋下市長は同じだという見方があるが微妙に違う気がする。橋下市長は「どこの国も悪いことをやったという歴史的事実を明らかにする」というナイーブな立場だが、安倍首相は「戦争は悪いものではない。むしろ良いものだ」として戦争への国民の賛意を調達しようとしていると思われ。

2.
アジアの解放のための戦争だった、特攻隊員はカッコイイ、等々。自虐史観を否定しているのではなく、戦争の悲惨さを描く反戦教育を攻撃している、と見るべきだよね。戦争を行うためには、自虐よりも反戦思想が最大の敵になるから。そして現在の教育政策の中心にあるのは、好戦的な思想を育てること。

3.
好戦的思想を育てようとしていると考えれば、なぜ靖国神社にこだわるかも分かるだろう。靖国はお国(天皇)のために死ぬことを顕彰する機関であるのだから。また安倍首相がFBで千鳥ヶ淵のことを書いても一般人には触れず、兵士のことしか書かないのもその現れととってもよいかもしれない。

本日、千鳥ヶ淵戦没者墓苑において拝礼式が行われ、硫黄島をはじめ、樺太マーシャル諸島、モンゴル、ミャンマーパラオ、東部ニューギニア、ビスマーク、ソロモン諸島マリアナ諸島旧ソ連地域から帰還した御遺骨が納められました。

先般ミャンマーへ行った際、総理としては36年振りに日本人墓地に参拝いたしました。
日本人会そしてミャンマーの皆さんによってきれいに墓地が整備されていることに感激いたしました。
その日は雨季であるにも関わらず、一日全く雨に降られず、外での行事を全うすることができました。
ふとミャンマーに眠る19万人の御英霊のお陰だと思い、胸が熱くなりました。
沢山のブーゲンビリアの中で眠る御英霊に手を合わせ、遠い異国の地で日本にいる家族の事を想いながら散った数多くの命を偲び、改めてご冥福をお祈りいたしました。
(5月25日の安倍首相のFBへの投稿)

4.
要するに、現在の日本政府は戦争したいのだ。9条は邪魔で、自衛隊ではなく国防軍にして、集団的自衛権も行使できるようにするのも、戦争したいから。そのために、教育でも、戦争を肯定する子どもを育てたいわけだ。だから、歴史的事実をゆがめて戦争を賛美する教科書を採用させようとするんだよね。

5.
自虐史観というなら、ガンジーのように戦争で闘わなかった人たちをダメな祖先だったとdisることもできる。つまり、自虐史観反戦史観とは限らない。

6.
逆に戦後の平和主義という70年の我が国の歴史を自虐しているのが現政権。だから、戦後に限れば現政権こそ自虐史観とも言えるわけで。自虐史観が好戦史観にもなりうる好例だろう。



これに関して、歴史学と政治の関係についてもメモ

1.
教科書問題で、歴史学よりも政治を上位に置く現政権は、同じく歴史学の成果を踏まえない鳩山氏に反論する足場を持てないと思うのだが。

鳩山由紀夫元首相は(…)尖閣諸島について、「中国側から見れば(日本が)盗んだと思われても仕方がない」と述べ、同諸島は「係争地である」との認識を示した。

 中国政府は、同諸島が日清戦争末期に日本に奪われたとの立場から、「日本が清国人から盗取した一切の地域を中華民国に返還する」とのカイロ宣言を領有権主張の根拠としている。鳩山氏は、「カイロ宣言の中に尖閣が入るという解釈は、中国から見れば当然成り立つ話だ」と述べ、中国政府の言い分に理解を示した。
(中略)
 菅官房長官は(…)鳩山元首相の発言について「断じて許しがたい」と批判した。
(後略)
(2013年6月26日07時14分 読売新聞)

鳩山氏は歴史学者の研究成果をきちんと踏まえるべきだし、そうだとすれば、自民党は教科書問題でも歴史学の研究成果をきちんと踏まえるべきだということ。